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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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中学時代、約2キロの通学路を徒歩で行き来するのにやっと慣れてきた頃、卒業。
徒歩で2キロがやっとこさの体力で、高校生活はバス通学。入学してすぐ、学校に間に合う時間帯のバスに乗ったら強烈な人酔いで途中下車、結局遅刻……以来、無理して早起きして、座れるバス通学にしたものの、バスに乗るだけで疲れていた私。
行きも帰りも乗り越し多数。バスで半端な時間熟睡してしまうので、夜眠れないという悪循環に陥りました。
それでも何とか3年間、知り合いのバスの運転手さんや、いつも乗り合わせるお客さん達に起こされながら、バス通学、もとい、高校卒業。その節は大変お世話になりました。
乗り越し分の金額目をつぶってくださった運転手さん、財布を忘れて乗り越し代を立て替えてくださった乗客の皆さん、本当にありがとうございます。
自分がもし、そのような困っている子を見かけたら必ず助けます。

ーー話を戻しましょうね。

そして、大学生活。初めはバスと、時間に余裕がある時は徒歩で、直線距離だと約4キロ離れた大学まで通っていたのですがーー高校3年間、約7キロのバス通学でヘタレるほどの体力しかなかった私が、バスに乗る距離としてはほぼ同じくらいのバス通学が初期は大変だったのは言うまでもありません。
しかも、山沿い路線を行っても、海沿い路線を行っても、バスセンターや駅でバス乗り継がないと大学まで辿り着けなかったものですから、ある意味それぞれ終点まで安心して居眠りできたのもあって、ますます夜眠れなくなる事態に……自業自得……

西洋には、『スリープ』と『シープ』を掛け合わせた『安眠』のおまじないがありますが……これはあくまで、英語圏のおまじないなんだと痛感した事件がありました。

いわゆる『俗信』と呼ばれる物事は、古今東西変わらぬものと全く違うものとあります。例えば塩や水晶は、浄化・お清めとしては万国共通アイテム。
ところがおまじないの類は、言語が違うと全く効果がないそうで。

大学生の頃は今ほどカルトオタクでなかったため(苦笑)、羊のおまじないは安眠効果があるかもしれないと思ってしまったのです。
ホント、不眠症とまではいかなくとも寝つきがあまりにも悪かったから、正直なところ『藁にもすがる思い』ではありましたーー当時、祖父の病院では強力な睡眠薬『ハルシオン』を取り扱ってはいたもののーーそれまで薬(抗ガン剤)で散々苦しんだから、強い薬は飲みたくなくて。

いざ、寝床へ入って、早速……ゆっくりゆっくり、羊を数え始めました。

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹」

もろ、日本語ですよ。効果がある訳ありませんよあーた。異国のおまじないは異国の言葉で、なのですよあーた。しかも意味ちゃんと解ってないと唱えても効果ないのですよあーた!

当時の私がそれを知る由もありません……おかしい、千匹超えたぞ……律儀に羊を数え続けて、脳内妄想域が羊で鮨詰状態になった頃、ブラインドの隙間から朝日の光が差し込んできました。

羊が二万六千……いくつだったか、数えたところで、朝が来たのです。安眠のおまじないで、まさかの貫徹。

「一睡もできんかった」

友人に羊数えて貫徹したことを話したら、同情されたり笑われたり呆れられたり。

皆さんも、おまじないとして羊を数える時は、英語で、スリープを意識しながらシープと言いましょうね。え、やらない? それは賢明です……

もしやるなら、日本人のあなたは日本語のおまじないをお勧めします。

ひとまるや まことあかしのうらならば われにもみせよ ひとまるがつか

三度唱えるとよく眠れるそうですーー元は、

ほのぼのと あかしのうらの あさつゆに しまかくれゆく ふねをしぞおもふ

という上の句があり、寝る前に上の句、起きてすぐ下の句を唱えると良いのだとか。
……これを詠んだのは柿本人麻呂説と小野篁説があります……
どうしてこの句が安眠と結びついたのは謎ですが、日本人由来のおまじないであることには違いありません。

文言覚える前に、眠れそう。(笑)

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妹が生まれる2年前、大ブレイクした歌の一節です。『ルビーの指輪』ーー別に、歌の影響を受けた訳ではありませんが、誕生石はルビーが良かったと思っていた私。
妹が7月に産まれた時、羨ましかったなぁ……

「いいなぁ、ルビーで」

と母に言ったら、

「何ば言いよぉとね、あんたもサファイアで高価な石やん。私なんかトルコ石よ」

すると父まで、

「俺なんかアメジストやぞ。子どもばっかり豪華な誕生石や」

弟は5月でエメラルドなのですーー言われてみると確かに、子どもばかりが高価な石でした……当時、誕生石を持っていた訳ではありませんでしたが。

1月ガーネット(赤紫)
2月アメジスト(紫)
3月コーラル(サーモンピンク)
4月ダイヤモンド(透明)
5月エメラルド(緑)
6月パール(乳白)
7月ルビー(赤ピンク)
8月ペリドット(黄緑)
9月サファイア(青)
10月オパール(虹)
11月トパーズ(黄)
12月ターコイズ(水)

誕生石は国・占い・パワーストーン的観点などで多少変わることがありますが、私が子どもの頃は上記の宝石が一般的な誕生石でした。

大人になると、世間が扱う誕生石の種類も意味合いも色々増えて、パワーストーンのブームがやってくると、誕生石よりもむしろ、石の持つ力が重視されるようになりました。

個人的な意見ではありますが、ストーンパワーで言うなら、最強なのは水晶。
余談ですが数年前、飼い主様が職場で望まぬ異動を強いられ、仕事辞めちゃうかもってくらいヘタレた事がありました。
「何か御守りになるモノが欲しい」と言うので、水晶の数珠ブレスレットを作ってあげました。以後、彼はほぼ毎日、御守り代わりに水晶着けて仕事に行っています。

誕生石もパワーストーンも、いわば御守りのようなモノと、私は捉えています。身を飾るモノとしての宝石は、どちらかというと二の次かしらん。(笑)
結婚指輪を作る時、指輪に着ける石は『青』か『誕生石』と聞きました。どちらも兼ねていた誕生石ーー自分でデザイン画を描いて「こんなの作って」と宝石商の母友達に頼んで、ほぼデザイン画どおりのリングを作って頂きましたーー作るのに出資してくださった飼い主様のおとうさんおかあさん、ワガママ聞いて指輪を作ってくださった職人さん、ありがとうございます。

……でも……私の誕生石は、サファイアなんだよなぁ。自分の肌色を考えると、赤石の方が似合うと思うのだけど。以前からサファイアとルビーが実は同じ石であることを知っていた私は、ペアリングにはルビーを埋めてもらいましたーー着けると見えない内側ですが。(笑)

それからというもの、誕生石にはこだわらず自分の波長に合う石を選び続けて、昨年。意外にもラピスラズリ(青)が私に合うということを教わり、以来、私のラッキーストーンはラピスラズリということにしています。
アクセサリーとか身に着けるモノとして似合うのではなく、御守りのようなモノとして感覚・感性に合っているのが、ラピスラズリらしいです。

でもまあ、ラピスラズリが肌に馴染んできたら、サファイアもいけるかもしれないですね。同じ寒色系だし……マットな青から、透明な青へーー
アクセサリーとして身に着けても、青が似合う女に、なれますように。

まだ、薬院に県営プール、天神にスポーツセンターがあった頃の話ーーなぜ通うことになったのか、全く覚えていないのですが、夏休みと冬休みに5日間ほど、バスで行ったり自転車で行ったりしました。
運動オンチで、体育嫌いではありましたが、この2つの体育講習は夏・冬それぞれ楽しいイベントでした。

水泳教室は、まず学年ごとに階級分けされ、その後、その子がどれだけ泳げるのか階級ごと担当の先生が見極めて階級移動、最終日は昇級テスト……だったような。
階級はほとんど覚えていないのですが、私は最初のテストでいきなり2級アップ。生まれた時から水好き大好き、母方の里には小川があって季節問わず遊んでいたためかーー水面顔漬け・ビート板もあっさりクリア。

1年、2年、3年……毎年参加していると先生とも顔なじみになり、5・6年になるともう、先生方には名前呼び捨てにされるほど仲良く(?)なりました、が……いかんせん、運動オンチ。
5日間とはいえ毎年通いましたから、全ての型で泳げるようにはなりましたし、6年生の最終テスト1キロ遠泳も泳ぎ切りましたがーーキレイなフォルムで泳ぎ続けられないのと、スピードが全く無いのとで、最上級クラスにはなれず終いでした。

スケート教室は、福大だか九大の体育科のお兄さんお姉さんが講師で、最初は参加者全員でリンク周りをペンギン歩き。今思うとペンギン歩きよりチャップリン歩きの方が近い気がします……上手に歩けたら、今度はいよいよ氷上へ。
リンクでもペンギン歩きで一周して、氷に慣れたところで、リンクに学年別・縦長一列になって、向こう側まで軽く滑っていくのですが、初心者は転びまくったり進めなかったり。ここで滑れない子・少し滑る子・スイスイ行ける子にクラス分けされて、クラス別の指導を受けることになりました。

この教室は毎年講師が変わっていたので、先生と友達のようになることはありませんでしたが、6年間トータル約1ヶ月ほどで、ゆっくりバックできるくらいに上達することができました。

水泳もスケートも、昔取った杵柄が残っていれば……今も多分、できるはずです。多分。どちらも10年以上、やっていないからなぁ、自信はありません。(笑)

私は、絵本は好きだけど活字が詰まった本はあまり好きではありませんでした。たまに宿題に出される読書感想文を書くのも、苦痛でしかありませんでした。
けれどもある日、母が『宮沢賢治全集』を買ってから、それまであまり好きでなかった活字の本が好きになり、読書感想文を書くのも苦ではなくなりました。

当時、自分が通っていた小学校には各学年教室ごとに『学級文庫』なる本棚があり、様々なジャンルの児童書が置かれていたのですが、毎年読破。
その本棚で『星新一』『江戸川乱歩』の作品と出会い、『宮沢賢治』と同じくらい夢中になりました。

そんなある日。夏休みの課題に、原稿用紙5枚(足らない分は自分で追加してくださいだったような)『物語を書きましょう』という宿題が出されました。
ちょうどその頃、エジプトでは猫が神様として崇められていたとか、中国では犬や猫が食材として売られている事など衝撃的な事実を知ったばかりだった私。
風によって主人公が運ばれていく『ユニコ』から設定を拝借ーーこの辺りは小学生ですから、大目に見てくださいって事でーータイトルを何とつけたかは忘れてしまいましたが、老婦人に飼われている子猫が日々の退屈な生活に嫌気が差し、風に頼んで時代や国を飛び越えて、神や食材になる寸前を体験した後「元の生活が一番いい」と帰ってくる……実は夢オチ……というお話を作りました。

当時の私は『言う事を聞かない悪い子』として担任に目をつけられていたため、たいした評価はされませんでしたがーー私自身、ちょっとしたショートストーリーを書く楽しさを知りました。
長い物語でなくてもいいんだという事は星新一のショートショートでも証明されていましたし、夢を話のネタにしていい事は宮沢賢治が実証済み。

でも、字を書く事自体が好きでなかった私……万年硬筆三級……その後、話を書いたり詩を書いたりしたいと筆を取ったのは、中学生になってからでした。
闘病生活で学校に通えない間に広げた空想・妄想の数々、あるいは家や保健室で見た悪夢など、ストーリー性を掴めた物は何でもノートにまとめました。

勉強はする気も起きなかったけれどその分、どうでもいいような話でノートを埋めました。(笑)

そのいくつかは、初彼が劇団へネタとして持って行ってくれ、高校生活においてはそれ自体がちょっとしたお小遣い稼ぎにもなり、大学など進路の一つとして真剣に考えた時期もありました。
結局、文学への道は選択しなかったものの、ネット環境が爆発的に普及し始めた頃、レンタルホームページでそれまで書き溜めてきた物語を公開してみたり……今は閉鎖しています……

何度かは小説大賞にも無謀なチャレンジしました。もちろん玉砕。(笑)
人様に楽しんでいただく以前に完全な自己満足、きっとその辺見透かされていたと思われます。
エブリスタや小説家になろうにも登録はしているものの、エブリスタの方は作品も公開していますが主にSNSなどで『このキーワードで小話作って』とリクエストされた小話メイン、小説家になろうは投稿ゼロ、ほぼ読者登録。(ペンネームはこのブログと同じ莢猫です)

お話書くのは今でも好きなので、そのうちまた、まとめ直してネット上にでも投稿します。

ちょうど先日、又寝した時に約30分コワーイ夢見たのですよ……お話になりそうな……悪夢もネタのうち。(笑)

高校生活は3年間、女子校だった私。入学式の時、体育館にセーラー服が鮨詰状態に並んでいるのを見てビックリ、クラスの人数が52人もいて更にビックリ。ベビーブーム世代であることを痛感しましたーーは、さておき。

正直、普通の女の子とは感覚ずれていた私は、『女子だけ』の空間になかなか馴染めませんでした……何せ、子どもの頃見ていたテレビ番組といえばウルトラマンや仮面ライダー、戦隊モノ、中学時代も聖闘士星矢や北斗の拳といった男の子が食いつきそうなものばかり。
歌番組は幼少期の事件以来まともに見ていなかったので、よほど周囲で歌われていない限りはアイドルも知らなかったし、日頃よく聞く音楽といえばクラシックバレエを習っていたためかクラシックオンリー。

あ、あと虫好きね。これだけは3年間、誰も共感してくれませんでした。(笑)

しかし、10代の女の子という生き物はとかく群れたがる……私はぶっちゃけ、そんな群れにはあまり関わりたくないと思っていたので、『一人なら一人でもいいや』と開き直っていました。
ただ、明らかに周囲にはぶかれて独りになっている子を見つけると放っておけずーーいじめに発展しかねませんからーー最初は、その子と一緒に昼休みを過ごす事に決めました。

一緒にお弁当など食べるようになって数日で「私も一緒に食べていい?」「いいよ」で1人増え、更に数日過ぎると2人増え、10日ほどで7人のグループ化。こはいかに?
女子52人もいると、私のような変り種の周りにもグループができるのねー……でも、趣味や好きなテレビ番組、好きなタレントなどの話になると、

「私、光GENJI大好き」
「えー、SMAPの方がいいよぉ」
「何言ってんのTMに決まってるでしょ」
「ねえ、さーやんどう思う? 好きなアイドル誰?」
「……(参ったなー、最近のアイドル全然知らない)……ピンクレディ」

一同、飲み物など吹き出すーー

「ちょっと、いくら何でも古すぎやろ。いつも何ば聴いとぉと?」
「えーと、チャイコフスキー、ポールモーリア、え、知らない? うーんと、ビートルズは? サイモン&ガーファンクルは? スティングとか」

一同、だんまり……そのうち、グループ中の1人が、

「さーやんは、変だからー」

と言って、一同納得。いやいやいや、『変』って何よ??
けれども、彼女が言ったこの言葉はあっという間にグループの子等に伝染。
しまいにはクラス中の子から、

「うんうん。さーやんは変だからね」

と返されるようになりました……まぁ、自分達にとって理解できない存在を『変だから』と納得してくれて、受け入れてくれたことには感謝します……
あなた達はその一言で納得できて良かったとは思いますがーー私自身は3年間、「変だから」と言われる度に複雑な心境になりました。

いじめでも、褒め言葉でもない、私を表す言葉ーー「変だから」。

周囲との価値観の違いから、壮絶ないじめを受けた人もいると思います。私自身、紙一重の環境にいたのではないかと思うと、グループの子の1人が言い始めた、この、

「さーやんは、変だからー」

に救われたのかもしれません。

ーーその後、大学〜独り暮らし時代にかけては、男友達からも女友達からも、

「男・女・莢猫」

と言われましたーー男でも女でもない、第3の性『莢猫』。産まれは戸籍上も『女』ですが、友人達に言わせると、

男友達「全然女っぽくないから、むしろ話し易い」
女友達「莢猫みたいな彼氏欲しかったー(又は)莢猫が男だったら良かったのに」

確かに、特に女として見られたいなんて欲求はほとんどなかったし、車で秘湯巡りをしていた時は、男女の別なく一緒にお風呂に入ったりしていました。恥ずかしいとも思わなければ、いわゆる下心も全く無し。

「それ、絶ッッ対、おかしいでしょ!」

と、女の子らしい女友達に厳しく突っ込まれた時ーー高校生時代、「変だから」と言われ続けた根源を見つけたような気分になりました。

そうね。私、おかしいわ。でも、何故 ??

深層心理は、神のみぞ知る。



結婚して飼い猫生活になった今。
たまに、飼い主様にまで言われます。

「男・女・莢猫」

ーー言うのはかまわんばってん。そんな私を妻にした、あーたよっぽど『変』だよ?
健康優良児……だったはずなんだけど、思い返すと結構病気していたなぁと気付きました。
毎年、季節の変わり目で気温差激しくなってくると『アレルギー性鼻炎』と診断され、プールの季節になってくると、たまに『結膜炎』でプールに入れない事もありました。

最近は、学校のプールでは水中眼鏡着用必須らしいですね。私が小学生時分は、目のシャワーなるものが蛇口についていて、それで目を洗うのが習慣でした。今、思うと……とんでもなくおぞましい……

特にアレルギー性鼻炎は、かなり大きくなるまで、いわゆるアオッパナ出てましたのーー昔の田舎の子どもごっつ。(笑)
母は『どこそこの耳鼻科の先生が良いみたい』という噂を聞けば連れて行く人で、最初は西新の耳鼻科へ連れて行かれました。温厚で丁寧に診てくれる先生でした。
何年も、忘れた頃にその耳鼻科へ通っていたのですが、ある日、母に連れて行かれたのは西新ではなく赤坂の耳鼻科でした。

そこの先生はどうも子ども嫌いっぽく、子どもながらに『この先生、イヤイヤ診察してるな』と感じるほどでした……もちろん治療も乱暴なら、言葉も酷かった。
何度目かの通院で、先生から、こんなことを吐き捨てるように言われました。

「あんたのツバは、バイ菌が い っ ぱ い だ!」

よほどか、先生の顔にペッとツバ吐きかけてやろうかと思いました。二度と来るかこんなとこ。
ーー今ならドクハラで訴えられてもおかしくない発言です。
母は名医と信じていたようですが、私は「この耳鼻科もう来たくない」と、それ以後、自分で自転車こいで西新の耳鼻科へ通いました。

眼科は歩いても通える所にあり、校医でもある女医さんで、行くと丁寧に診てくださいました。小学校の校医ですもの、子どもの面倒見は極めてあったのかもしれません。たまに眼帯させられたり、その治療は過保護すぎやしない? なんて事も……(笑)

眼科も耳鼻科も、まだありますーー次世代が継いだか、でなければ、かなりご高齢になられた先生が現役がんばってあると思われーーさすがに、あまり無理はして欲しくありません……いろんな意味で。

そして、4年生くらいまで、冬場一番冷え込んだ時になっていたのが『しもやけ』。どういう訳か、手か足の小指にできていました。日頃はこんまい小指が、ほぼ2倍に膨れ上がるの。
五本指手袋がはまらなくなるので、しもやけ期間はミトンでした。治療には、近くの小児科へ通いました。風邪ひいた時もお腹壊した時も、この小児科でした。塗り薬を処方してもらっていたのですが、ちゃんとつけていた記憶がない……

痛みはあまり覚えていないのですが、温まると痒いのなんの。外から暖かい部屋などに入るとすぐさま、掻いても掻いても治らない強烈な痒みが襲いました。
血行悪化から起こるそうですが、どうやって治したやらーーいつの間にかなっていて、いつの間にか治っているのがしもやけでした。

血行の悪さで言えば、あの頃より今の方が酷いはずなのに、しもやけ起こしていたのは小学時代だけでした……不思議だ。
もしかしたら、温暖化のせい? それとも、ヒートテックなどのぬくぬく下着が普及したせい?
そういえば『あかぎれ』も、最近見ないなぁ。

鼻炎は、今だに耳鼻科のお世話になることありますが、今の主治医の先生曰く『アレルギー性鼻炎じゃないよ。普通に副鼻腔炎だよ』とのことです。昔と今では診断も変わるものです……
結膜炎やしもやけなども、子どもの頃のように病院にかかることは無くなりました。てか、中学生以降、一度も発症していません。

何なんでしょね。(笑)


子供の頃は、全くなかったと思います。意識もしていなかったから記憶に無いのでしょう。何せ、温泉後に水浴びしていたくらいですから、冷え症ナニそれ体質だったと思われます。

それが、白血病やってから、冬場は足元に湯たんぽが無いと眠れなくなりました。高校生の時には、父がお歳暮に頂いていた養命酒を毎晩飲まされましたが、足の冷えは悪化していく一方……電気毛布が無いと眠れなくなりました。

社会人になると、夏場でも腹巻とレッグウォーマーが欠かせなくなりました。ここまでいくともう冷え性ではなく冷え症ですね……けれども当時は、『冷え性』という体質であって病気とはこれっぽっちも思っていなかったため、医者に診てもらうことなどありませんでした。

飼い猫生活が始まって、数年おきに入退院を繰り返し、38歳の時に橋本病と診断されてようやく、手足の冷えが病的であることに気がつきましたーー遅すぎるわ。
冷え症になったのは随分前から橋本病が原因だった、という可能性は否めません。が、診断されたのは38歳でそれ以前ではありません。

橋本病は、前記事でも語りましたが自己免疫疾患の一つで、代謝や体温調整などにも関わってくる病気です。この病に全く関係ないとは言い切れないのですーーが、これは自己診断であって医者に言われた訳ではないので悪しからず。

でも、長年、冷え症に悩まされている方は、ホルモンバランスを保つ器官の検査を受けることをお勧めします。女性の場合、甲状腺の他、卵巣や子宮がその代表格ですね。

私の場合ですが、去年からプロテインとマルチサプリメントを毎日摂るようにしていたら、それまでなかなか手放せなかった冬場の電気毛布や夏場の腹巻・レッグウォーマーが要らなくなりました。

食品による体質改善は可能なようです……今でも、寝る前の手足の冷えは半端ありませんが、これも次第に克服できると信じています。

私がお世話になった外科の受付看護師さんは、どういう訳か私のことを覚えていて、受付で保険証と診察券を差し出すといつもこう言われました。

「まぁた、あんたね。今日は何したとね?」

ドラえもんのようにまん丸で、母より年を取って(いるように見えて)いて、いつもしかめっ面でしわがれ声、老眼鏡と思われる分厚い眼鏡をかけたオバチャン看護師さんがデンと構えて上から目線。
毎度のことなので、怖いともムカつくとも思わず素直に、自分がどんな怪我で来たのか伝えていました。

捻挫や突き指はしょっちゅう(突き指するとピアノの先生から大目玉食らうのではよ治さなでした)、時には爪が剥げたとか数針縫わなん怪我したとかーー何故、そんな怪我をしたのか、今となってはほとんど覚えていないのですが、とにかくまあ、顔を覚えられるほど頻繁にお世話になっていたのは事実のようです。(笑)

今でも覚えている怪我は、ライダージャンプを筆頭に、風の強い日にスチールドアで指挟んだ、プールの底で足の指擦ったと思ったら爪も取れていた、うっかりブランコこいでいる所の前を横切って顎切った、自転車で公園の崖駆け下りて木の根に当たってひっくり返り膝(の皮膚)が割れたーー書き並べているだけでも痛いわこりゃ。
ドッヂボールなど球技の最中に突き指・捻挫……これはひとえに運動オンチのせいかと思われ……年に2・3回はそんな怪我をして、一週間から二週間ほどは通院する事になっていたから、覚えられて当然か。

今でも、テレビや街の雑踏などで、ふくよかな年配女性を見かけると、外科の受付にいたオバチャン看護師さんを思い出すのです。

怒ったような、呆れたような、しわがれ声で頭ごなしに言われていたセリフと共に。(笑)

初めて自転車を買ってもらったのは、小学1年生ーー入学祝いだったのかしら、誕生日ではなかったような気がします。
あまり好きな色ではなかったのですが……真緑色で、サドルには101匹ワンちゃんの絵がプリントされていたのを覚えています。自分が「これがいい」と選んだ記憶はありません……親でなければ、どちらかの祖父母が買ってくれたものだったかもしれません。

初めは補助輪が付いていて楽々乗れていたのが、ある日、母がそれを外してしまいました。

「いつまでも補助輪付きに乗るのは恥ずかしかろうもん」

とのこと。確かに、いつまでも補助輪付きは恥ずかしいけれど、これを乗りこなすのはとても大変でした。私があまりにも乗れないので、母は相当呆れました……というより、乗れないという事実に驚いていたようです。

「補助輪外しただけやのに、何で乗れんとね?」

何でって言われてもあーた。6歳の私が知る由もありませんがなーー怒ったような馬鹿にしたような口調で言われても、乗れないものは乗れないのです。
何より、補助輪を外した私の自転車を先に乗りこなせるようになった弟に対して、猛烈な悔しさと歯がゆさと怒りを感じた私。自転車に乗る特訓を開始しました……が。いたずらに擦り傷を増やすだけでした。

毎日、学校から帰ると宿題よりまず自転車特訓。時には、母が後輪の荷台を支えてくれて、レッツサイクリング! 少し進んでは何度も無様に転びを繰り返して一週間ほどーーようやく、自転車に乗るバランスのコツを掴みました……一週間がとてつもなく長く感じたのを、今でも覚えています……

自転車に乗れるようになってから、行動範囲が劇的に広がったのは言うまでもありません。ピアノのレッスンもバレエのレッスンも、怪我をした時の外科通院も、自転車でゴーゴー。
その実、ライダージャンプで両足首捻挫した時も、自転車で行って病院の看護師さんに呆れられました。(笑)

中・高校生時代は自転車から少し離れましたが、大学生になった時、父方祖父が通学用にとマウンテンバイクを買ってくれて、自転車ライフ復活。ワンゲルの肉体鍛錬サイクリングでも重宝しました。
車に乗るようになってから、自転車はワンゲルに寄贈ーー後輩達に使ってもらうことにして、自転車ライフは終了しました。

もし、今また自転車に乗ることになったらーー竹馬のような昔取った杵柄は無いような気がするなぁ……ちゃんと乗れるかしらん。

私は、自分で言うのもなんですが超が付くほどの健康優良児で、外で遊ぶのが大好きな子どもではありました。がーー体育は超苦手。鉄棒の逆上がりも跳び箱も、三年生までクリアできなかった運動オンチでもありました……バレエとかやっていた割には体も固く、思い通りに体が動かない……

そんな小学生活で最も嫌なイベントが『運動会』でした。かけっこはビリから数えた方が早かったし、自分が勝てる種目はせいぜい玉転しや綱引き、騎馬戦(5・6年生限定)などの肉体勝負のみでした。

そんな運動会で、唯一、一等賞を取れたのが町内会の運動会。私が小学生の頃は、学校で町内会の集会があるほど、学校と町内会の結びつきが深かったようです。
校区と町内会と小学校ーー学校主催の運動会とは別に、町内会主催の『校区対抗運動会』が……多分、毎年、行われていたと思います……
さすがに町内会の運動会なので、強制参加ではなかったような。その辺りの記憶は曖昧ですが、6年生になると小学生では最上級生で町内会運営の端っこを担う事になっていただか何だか、これまた記憶曖昧ですがーー今まで参加したことがない町内会の運動会に参加しないといけなくなりました。

もちろん、強制参加ではありませんから、『次の競技は各町内3人参加してください』とか言われて、「じゃあ私行きましょう」とかそんな感じで選手も即席で決まっていきました……緩いわー……
私は2種目は出てねと言われ、まずは一本の棒を4人で持って走る競技に出ましたーー他のチームが高齢者多数だったっけかで、2位。まずまずの成績でホッと一息。
次の競技は竹馬のかけっこーー誰も手を挙げる人が無く、「じゃ、私、行く」と名乗り出ました。竹馬は、以前、母方祖父が作ってくれた事があり、乗り慣れた遊び道具でもありました。
そこそこ自信はありました、が、かけっこは苦手……まぁ、参加すればお菓子などの詰め合わせが景品で貰えるので、半ばそっち目当てで参戦したのです。

同級生も何人か参加していましたが、何とまぁ日頃は体育で勝てた事のない子等が、揃いも揃って竹馬にまともに乗れずーーもたもたしている選手達を尻目に、ダントツ1位でゴールテープを切りました。やったぁ!
町内の人達も盛り上がってくれて、鼻高々。文具やお菓子がたくさん入った福袋のような景品もゲットして、意気揚々と席に戻りました。

運動会で華々しい活躍はこれっきりでしたが、これっきりなだけに楽しい運動会の思い出になりましたーー私のような運動オンチでも、ダントツ1位になれる競技があるなんて。(笑)

その後、社会人になってから1メートルくらいの高さに足置きセットしてある竹馬に挑戦ーー昔取った杵柄は残っていました。
飼い猫生活になってからは、バランスボールにも難なく乗れて……私、運動オンチだけどバランス感覚だけはいいみたい……と気づきました。

まさかとは思うけど、バレエやっていたおかげかしらん。

どこかで乗る機会があったら、試してみたいと思いますーー竹馬。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
50
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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