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猫空世界〜闘病生活から超自然主義にならざるを得ない生活になった世界〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。

2020/06    05« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  »07
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私には、二歳下に弟、十歳離れて妹もいた上、母がベッタリするのを嫌う人だったのもあってか、自分が甘えたい思いは他に向けていたような気がします。
根が『甘えん坊』なのは、コンプレックスでもあったと思います。自分の満たされない気持ちは全部、ぬいぐるみにぶつけていたような……記憶は曖昧なのですが、高校生になるまでぬいぐるみをベッドに置いていたのは事実です。

子どもの頃、どこへ行くにも持ち歩いていたのが猫のぬいぐるみでした。小学校に上がっても、遠出する時(祖父母宅に行く時など)は必ず持って行きました。
12歳の誕生日にはリアルサイズのラッコのぬいぐるみを買ってもらい、それが添い寝のお供になりました。



入院中も、そのラッコを抱いて寝ていたのですが、ある日、そのことを保母先生に「甘えん坊」と指摘されて、恥ずかしいやら腹立たしいやら……
その実、入院してから母に甘えた事ばかり言っていた私。先生はやんわり釘を刺してくれたつもりだったのでしょうーー今ならそう思えますがーー当時の私はショック過ぎて、しばらく保母先生のことを無視していました。

その時、やり場のない思いをぶつけた詩がこちら……原文は利き手でない手で書いているので前記事の『ししゃも字』で書いてあると思ってください。

ラッコをだいてねるのは
わたしが甘えんぼうだから
じゃない
わたしは小学校にあがって
朝おきたら弟みたいに
母さんのふとんに入ったことは
一度もない
わたしはあまり
甘えたことはない
きょうだいとくらべても
わたしは甘えきれなかった
だからぬいぐるみなどを
だいてねる
それでよっきゅうふまんを
かいしょうする

今手元にあるぬいぐるみ
ラッコがゆいいつのよっきゅうふまん
をかいしょうしてくれる人だ
さびしいとおもったら
いつもお母さんにいてほしかった
けれどもいままでは
半分くらいきょうだいたちが
みてたから姉ちゃんとして
はずかしいから
ぬいぐるみを
だいてねた
今入院してて
さびしいなと思っても
お母さんがこれる日が
きまっているから
さびしい夜は

ラッコをだいてねる
甘えたいから
ラッコをだいてねる
甘えた数は
多いかもしれんけど
父さんや母さんには
こんなこといったこと
ないけど
いったら
姉ちゃんだから
はずかしいよ
だから
甘えんぼうじゃ
ないように
がんばってきた

だから
甘えんぼうじゃない
さびしいから
本当は甘えんぼに
なりたかったな



わたしは
ある人から
「さやちゃんはラッコなんか
 だいてねるなんて
 甘えんぼね」
といわれ
とてもくやしかった
お母さんと
ラッコはとても
いい人だ
いつもなぐさめてくれる


ーー12歳なりに、自分の矛盾と戦っていたのね……てか、ラッコのぬいぐるみが『人』になっているあたり、それだけ依存していたんだなぁと思います。

それにしても、私が入院中に書き散らした様々な言葉、イラスト、クラスメイトから貰った手紙など、全てを残してくれていたのは母でした。

母さんありがとう。でも、この歳で12歳の自分と向き合うのはさすがにこっぱずかしいわ……


※挿絵は当時の私が利き手でない手で描いたものです

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無菌室を出てから、本格的な治療が始まりました……多分。無菌室に入る前から始まっていたとは思うのですが、治療を実感し始めたのは無菌室を出てからでした。

まず、口の中が荒れて固形の食べ物が喉を通らなくなり、二週間ほど流動食になりました。喉にスプレータイプの麻酔薬を吹き付けて、無理やり流動食を飲みました。その劇薬がとてもえぐかったこと、そのせいで流動食の味がほとんど分からなかったこと、ただ、重湯は激マズだったのは覚えています。(笑)

その後薬を変えられたらしく、今度は強烈な吐き気に襲われるようになり、自分がその日その時その瞬間に食べたいと思った物しか食べられなくなりました。このせいで随分母を振り回し、度々親子喧嘩の元になりました……
当時書いたモノがこちら ↓ 利き手でない手で書いているのでヨレヨレです……


そして、放射線照射の影響もーー最初に気づいたのは、枕についている抜け毛の量でした。抜け毛がシートになっていて、端をつまみ上げると全部がペロンと捲れ上がるほど。ブラシで解こうものなら、ブラシの先が真っ黒になるほど抜けるのです。

もともと、おさげにすると片方が大人2食分のパスタ分くらい、どんだけ髪多いのってくらい生えていたのが、日に日にスカスカになっていきました。
病棟の女の子達の中には、西洋(赤毛のアン)風のナイトキャップをかぶっているオシャレな子もいて、母が同じような物を作ってくれました。が。

その子には似合っているのに、自分にはちっとも似合っているように見えないのねー……(苦笑)
せっかく母が作ってくれたナイトキャップも、季節が初夏から夏に移り変わる時期で頭が蒸れるのもあって、ほとんどかぶらなかった……ありがとごめんね、母さん。

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約二週間、勉強はまるで手につきませんでしたが、母が人から譲ってもらったという簡易的な自動演奏付きキーボードやトランプ、挿絵の多い本を差し入れてくれたり(滅菌消毒ができるものはOKでした)、広告の裏紙に落書きなどして、それなりに面白おかしく暮らせた……んじゃないかな、多分。

けれども、無菌室での可動範囲がベッドの上以外はポータブルトイレまで。歩行距離もほとんどありません。一応ラジオ体操など動ける範囲でやってはいたものの、筋肉の衰えは凄まじいものでした。

それを身をもって体験したのが、無菌室を出た初日。

基本、ベッドからトイレまで自分一人で行ってもいい子どもは、食事の食器を自分で配給ワゴンまで乗せに行きます。配給ワゴンは昼は長めに置いてあるのですが、夕方は早々に看護助手さんが押して行ってしまいます。
乗せそびれた食器は、プレイルームに置いていたようなーー記憶曖昧なので割愛ーーこほん。とにかく、夕食後は急いで膳トレーを置きに行かないとなのです。

私は当時は割と早食いでしたので、特に問題なくトレーは乗せられました。が、茶碗を一つトレーから外していたのを忘れていて、後からそれを持って行こうとしたら、もう看護助手さんがワゴンを押していくところでした。

慌てて茶碗を握りしめ、点滴下げる竿押して小走りしようとした途端……


腰が抜けたような脱力感に襲われて転倒。点滴の竿ごと倒れてえらいこっちゃ……不幸中の幸いは、点滴の瓶が割れなかったこと。

こんなにも自分弱っていたのかと痛感した出来事でした。

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さて、無菌室生活初日は、身の回りの確認でした。空気清浄機から常に掃除機のような音が聞こえる(うるさいから止めてと言ったら怒られた)中、可動式机の上には滅菌蒸留水というラベルが付いた瓶と、紅茶色した液体が入ったガラスポットが並んでいました。
蓋を開けて匂いを嗅いでみました……この時既に嗅覚おかしくなっていたのかもしれませんが、私にはそれがハーブティを思わせる匂いだったのです。
滅菌蒸留水の方は飲み水と聞いていたのですが、茶色い液体については何の説明もなかったので、入れ物の形から勝手に『紅茶かな』と判断。喉も渇いてきたので飲んでみることにしました。



何と、この液体はーーイソジン!! 思いっきり飲んでもーた……てか、看護師さーん!先に教えといてよぉーーっ!←自分で聞けよってか、自業自得。

以来、私はイソジンのウガイ薬が大嫌いになりました。大人になった今でも、ウガイ薬はアズノールを使っています……ぐふっ。

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私よりも長く入院している子ども達の間には、暗黙知の空間がありましたーーそれは、無菌室。


当時、小児科病棟に二つしかなかったその部屋は、誰もが最も入りたくない部屋でした。

と、いうのも。

その部屋に入る事になった子は、早いと一週間くらい、長くても十日前後で……ひっそりといなくなるのです。
看護師さんや先生に聞いても「退院した」とか「病院変わった」とか、嘘を吐いているのがありありと窺えるような答えが返ってくるだけで、当然何も教えてくれません。

本当の事を教えてもらえなくても、空気は確実に伝わってくるものです。当の私も、入院して一ヶ月もすると、その子ども達の暗黙が解るようになってきました。

誰も言わない。言わないけれど解るーー雰囲気。

その部屋は二つしかなかったので、中にいる子が居なくならないと空きません。そして、重症の子から順に入れられていきます。部屋が空いたら、次はだいたい、少数部屋にいる誰かが入る事になっていました。
六人・四人・三人部屋、入院当初三人部屋に居た私は、次にあの部屋に行くのは同室の誰かだろうと思っていました。

無菌室から一人の女の子がいなくなった日。主治医の先生が言いました。

「さやちゃん、今日から無菌室入ろうね」

えっなんで、私? って思いましたよ。私より重病そうな子は他にもいるのに……有無を言わさず、その日から私は『無菌室の子』になりました。

六人部屋に居た子らの目は、何とも言えないものでしたーー「そうか、さやちゃんあの部屋行くんだ」「あの部屋行くの、そう」ーー誰もそれ以上は言いませんが、私はもう普通の病室には戻ってこないだろうという空気が漂っていました。

それでも、私は入院前検査で部長先生から、

「この子の心臓は稀に見る丈夫さだね。これなら、どんな治療にも耐えられる」

とお墨付きを頂いた身体です。……って、おい! 大人になって気づいた事ですが、それはつまり、そういう事だったのネーーーーッッ!! ←気づくの遅すぎ。

大人になって気づいた事はさておき、当時の私はそれでも、自分の病気に対してタカをくくっていました。あんな夢を見ておきながらも、自分はそう簡単には死なんとかたく信じていたのです。

かくして、約二週間の無菌室生活が始まりました。

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これまで、病院にお世話になるといえば、風邪とか突き指とか捻挫とか爪が剥げるとかーー主に『外科』がメイン、しかも風邪以外の状態なら自分で自転車こいで病院に通っていた私。

入院生活というのは7歳、逆睫毛の手術で入院して以来(ほとんど記憶に残ってないの……)、ほとんど何もかもが初体験(みたいなもの)でした。

その最たるものがまず点滴。その病院の小児科病棟では、長期点滴という事になると皆こうなりました。


針が動いたり抜けたりしないよう検尿カップを加工した針カバーをテープで固定され、同じ理由で手首から腕にかけてシイネという金属板にホータイ巻きつけた添え木でガッチリ固定。どんなに寝相が悪い子どもでもこれなら安心……看護師さんは、ね。

子どもにとっては不自由極まりない代物で、利き手につけられるともうーー食事も字を書くのもトイレだって事欠く始末。まして動き回るためには点滴瓶(当時の点滴はパックよりガラス瓶が多かったような)を下げた車付きの竿を持って行かないといけないので、行動も妨げられます。


そして、どういう訳かこめかみを剃られ、何をされるかと思いきや……


照射位置がずれないようにつけるのだと太書きペンで十字を書かれました。
可愛くもなければカッコよくもない。同じ印を入れられていた男の子は、「どうせなら☆にして欲しかった」と言っていました。とっても同感したのを覚えています。

これが過酷な治療のスタートであるとは、これっぽっちも思っていなかった私ーー思春期ならではの心の不協和音も忍び寄る中、症状は次第に悪化していきます←このうちの半分は、治療によるダメージだったかもしれませんが。

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入院したばかりの頃、入れ替わり立ち替わり小学時代のクラスメイトがお見舞いに来てくれました。

来てくれた友人は、私があまりにもヤンチャであったのを知っているので、病室に入るなり第一声が「骨折で入院したっちゃろ?」でした。当時、『病名は悪性貧血』と聞かされていた私は、毎回「悪性貧血だって」と答えては「まったまた、嘘やろー」というやりとりを嫌になる程繰り返しました。




今となっては笑い話の一つですが、当時、友人だけでなく私自身も「なんで悪性貧血?」と思っていて、何とも言えない歯痒さに囚われていたのを覚えています。

病棟内には、何故か薄ら禿げになった子やパンパンに浮腫んだ顔の子、まるで餓鬼のようにやせ衰えた子もいて、ただならぬ空気に包まれていました……私一人が浮いている感じ。
プレイルームという食堂も兼ねたスペースには本棚もあり、その本棚には児童文学や絵本の他に親が読むような本もたくさん並んで、その中には自分の本当の病名を示すモノもありました。

無意識の中で、自分がどういう状況にいるのか解っていたと思いますーーそれは、『死』が目と鼻の先にあるということ。

勉強などとてもする気になれず、親に渡される文庫本を読んでしまうと病棟の本棚にあった本を片っ端から読みあさりました。絵本・児童文学・親が読む本……入院生活が一ヶ月過ぎた頃には、病棟の本棚も読破ーーそれでも私は、自分は『悪性貧血なんだ』と信じました。


解っているのに『私は違う』と思い込みたい心理ってありますよね、大人にも。

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入院した日、こんな夢を見ました。

真っ暗闇の坂道をダラダラと登っていく夢ーー次第に息は上がってくるし、足取りは重いし、でも坂道は登っていくもの、そう思い込んで登っていくのです。
そのうち光の点が見え、それはだんだん大きくなってきて、暗闇にいた私はその眩しさに手で目の上に庇を作って進んでいきました。

ようやく、その光がU字をひっくり返したような形だと判ってきた頃、坂の下の方から母の怒鳴る声が聞こえました。

「あんたどこ行きよぉとね、はよこっち来なさい!」

もう少し頑張れば出口という所で、母は何を言っているのだろう……私はムッとして言い返します。

「何言いよぉとね母さん、あっこに出口見えよぉやん!」

けれども母は私の言葉を無視して、怒った声で怒鳴り続けるのです……うるさいなぁもう……と、私は母を無視して歩きだそうとしますが、疲れすぎたのか足が思うように動きません。
母の怒鳴り声を聞きながらも足を引きずり、トンネルの出口はすぐそこ! というところでーー目が覚めました。

薄暗い部屋にいて、横を見ると、母が何故か逆さに文庫本を持っていました(カバーが逆さだったのかも)。

日付を聞いたら、主治医になる先生に「入院しようね」と言われた日から丸一日過ぎていて、そんなに寝ていたんだと思ったのと、あのトンネル抜けていたらどうなっていたんだろうと思いました。

臨死体験をした人達が言う『お花畑』を見られたかもしれません。当時の私はそんな事もよく分かりませんでしたが。


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腰痛持ちの小学生は中学に入学した頃から、打った覚えのない所に青あざができるようになりました。ベッドから落ちるほどではないけど寝相の悪かった私は、寝ている間に壁に当たったのだろうという事にしていました。

入学早々ブラスバンド部に入部、入学祝いを兼ねたトランペットを買ってもらって、レッツ中学生活!

ところが、四月の半ば過ぎから37度ちょいの熱が続くという風邪のような症状に見舞われるようになりました……

それでも元は超健康優良児ですから、「少しの風邪くらい大したことない」と通学強行するも、五月の連休明けには吐き気も酷くなり、道端で粗相しないように紙袋にスーパー袋を重ねた物を常備してまで、無理やっこ通学。

中間考査も近づいてきて、「このままではまともに試験が受けられない」とようやく近くの診療所に通院しましたーー体温を測り、血液検査した後、胃カメラも飲まされました。飲まされる準備のところまでは覚えているのですが、当時の胃カメラが超太かったのはしっかり記憶に残っています。

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六年生になった年の9月、ついに憧れだった子供部屋を手に入れました。六畳二間の社宅から、4LDKマンションへ!
父の稼ぎが絶頂期……だったと思われます。五人家族になっていた莢猫一家は、念願(かどうかは聞いていません)のマイホームへ引越しました。

が、もう六年生の二学期に突入していたため、学校側の計らいで、卒業するまで引っ越す前の小学校へバス通学することになりました。

慣れないバス通学ではありましたが、何だか大人になれたような気分ではありましたーーけれども、別の意味でも、大人な気分を味わうことに……腰痛に悩まされ始めたのです。

今思えば、それが病の最初のきっかけ『予兆』だったのかもしれません。当時、祖父が医者をしていて湿布薬などたくさん送ってもらいましたが、気休めにしかなりませんでした。

謎の腰痛は整形外科で診てもらっても原因も判らず、私は小学生の身分で腰痛持ちになりました……

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プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
46
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。

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