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猫空世界〜闘病生活から超自然主義にならざるを得ない生活になった世界〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。

2020/06    05« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  »07
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親切な友達と友達お母さんのおかげで、無事、四年制大学の推薦枠を押さえた私は、推薦試験を受けに大学へーー本当に、試験は選択制で世界史か日本史のみ、午前中筆記で午後から面接試験になっていました。

緊張のあまり『検非違使』をド忘れしてしまって、仕方なく、解答欄に『勘解由使』と書いたことを今でも覚えています。(笑)
※  検非違使(ケビイシ)も勘解由使(カゲユシ)も令外官
 詳しくは8世紀から9世紀の日本史を紐解いてね
 問題は『薬子の変後に設けられた役職は何か』でした

でも、そのおかげで幾分緊張がほぐれた私は、午後の面接は気合を入れ直すことができました。
面接官はズバリ日本史担当の先生でした。試験はどうだったと聞かれ、一問間違えたことを告白。その後、履歴書を見ていた先生は、

「あれ、もしかして〇〇(父方祖父)先生のお子さん……は、ないな。お孫さん?」
「え? あ、はい。祖父をご存知でしたか」

すると、先生は、ご自身が大学で教鞭をとられる前は高校の校長をしていらして、祖父は何とその校医をしていたという話をしてくださいました(初耳)。

……って、いやいやいや! 今、面接中ですよ? 思いっきり私的な話に逸れてますがなー!

けれども先生は嬉しそうに語られるし、水を差す訳にもいきません。

「いやぁ、懐かしいなあ。僕がお腹壊した時ね、先生にはお世話になったんだよぉ」
「は、はぁ、そうですか。それは良かったです」
「先生にはよろしく伝えてちょうだいよ」
「はい、必ず伝えます」

こんなやりとりしているうちに、面接時間終了。

「おっと、時間だ。それじゃあ僕、入学式で待ってるから。
 はい! 次の人ぉ!」



ほぼ雑談だったのに次の人が入ってきて、私は速やかに面接室を出るしかありませんでした。
しかも、受かるかどうかも判らないうちから『入学式で待ってるから』って……
高校受験では母方祖父の人脈に助けられた私。大学受験では図らずも父方祖父に助けられました。

その実、入学式で私に声をかけてくださった面接官の日本史先生は、たまに講義を欠席すると、

「姿は見えなかったけど、出席にしておいたよ。具合悪かったの?」

とお気遣い頂きました……代返無意味やったわ、ホント。(汗)

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大学に入学する前の経過観察通院で、

「さやちゃんも大学生になるから、本当の事を話そうね」

と主治医に言われた私。すぐに、自分の病名のことだろうと察知しました。


入院中、病棟にあった本は全部読んでいたので、やっぱりそうかとしか思いませんでした。
病棟の本棚には、血友病・白血病・腎臓病など大人向けの本もあり、明らかに入院患者の親が読む本でしたーー中でも、白血病は自分の症状や治療サイクルとかぶっていたので、本当は解っていたのだと思います。

それでも頑なに『悪性貧血』と思い込み続けたのは、死と向き合うのが怖かったからだと思います。当時、白血病はガンと同じく『死病』のイメージが強かったから……

私は、この日から、安易に「死にたい」と思うのをやめました。

自分自身を追い詰め、ちょっとした周囲の言葉に追い詰められ、何度「死にたい」と思ったか知れない思春期。

18歳になっても相変わらず口下手で要領も良くない私でしたが、その時に何か一つ、乗り越えられたーーような気がします。

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中学と同じく、高校生活にも受験期はやってきます。
私が通っていた高校は就職率はダントツに高かった(らしい)のですが、進学率はとても低く、大学進学は四年制より短期を目指す人の方が多かったように思います。

クラスの中では、四年制を目指していたのは私の他にもう一人だけ……だったような。その子も成績優秀で、彼女はすんなり受験枠を押さえられたのではないかしら。
欠課次数の多かった私は、またもそれがネックになり、三年になると憂鬱な日々を送ることになりました。

そもそも、体力作りのために大学に行こうと思っていたので、大学で具体的に何を学びたいとかそんな方向性はまるで頭になかったので、大きな落とし穴に落ちたような精神状態でした。

当時、図書委員で美術部だった私には、進路の選択は文系という漠然とした方向しか見えていませんでした。
連休明け、進路について保護者面談も近づいてきたある日、社会の担当教諭から、

「お前の得意な日本史だけの推薦試験をやっている大学があるぞ。私立だけど四年制だから、良かったら親に相談してみないか?」

推薦枠を押さえられるほど出席日数は足りていませんでしたが、相談くらいは……と、親や周りの友達にまで話をしていたら、なんと友達の一人が、

「うちの母さん、その大学の学長と知り合いなんだって。夏休みに同窓会で会うってよ。やけん、さーやんも一緒に会いに行かん?」


何ということでしょう! 私はすぐさま自分の成績と結果日数を数え直してメモし、親にもこの事を話して、夏休みーー友達のお母さんと一緒に大学へ行きました。
学長は私の話を聞くとすぐさま進路科の先生を呼んでくださり、進路科の先生からは直に名刺を頂いて、

「もし、校内で推薦枠を取れなかったら、大学の方から推薦枠を斡旋しますので、こちらに連絡してください」

と確約して頂きました。

思わぬ形で道が繋がった私は、俄然、勉強に励みました。今までは本当にただの丸暗記だった日本史も、きちんと歴史資料なども読んで暗記した内容に色を着けていきました。
高校受験も人づてに頂いた推薦枠、大学受験もまた人づてに推薦枠を頂きましたーー我ながら、数奇な運命ですね。とても有り難いことです……

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私立の修学旅行は海外が主流であった当時、私が通っていた高校の修学旅行先はハワイでした。
中学修学旅行は父方祖母が同伴でしたが、高校修学旅行には母方祖父が同伴。
というのも、母方曽祖父はハワイ移民経験者で、祖父もハワイ大学で教鞭をとった事があったそうで、遠い親戚や知り合いもいるからと自ら同伴に名乗り上げ……

現地では、ほぼ、祖父とは別行動でした。(笑)

修学旅行でハワイに行くのを、祖父はどのようにハワイ在住の知り合いに伝えたのかーー全く分かりませんが、自由時間にその方達にお会いして、英語日本語ちゃんぽんの挨拶をした記憶があります。祖父との会話も英語日本語ちゃんぽんでした。

次の日、ホテルのフロントから名指しで呼ばれた私は、フロントの前に置かれた六人家族用くらいのテーブルサイズワゴンの上に乗ったモノを見て驚きました!

テーブルの上一面に、ココナッツケーキ!!

祖父の知り合いが、私に差し入れしてくれたとか。いやいやいや、修学旅行で来てるんですけど!?



あまりにビッグな差し入れに困惑……とりあえず、自分のクラスの人数と部屋番号を伝えてホテル側で切り分けてもらって、部屋に直接運んでもらいました。

その後も、ハンバーガーショップでは飲み物やポテトのSサイズが日本のLサイズだったり、売っているTシャツのサイズが違ったり(どう見てもLLサイズなのにMサイズと表示)。

祖父にケーキのお礼どうしようと相談した挙句、その年のクリスマスにお礼状を書いて送りましたがーーハワイにいると身も心も大きくなるのだろうかと思った修学旅行でした。

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中学で泣く目にあったカツラ傷心を克服すべく、高校では、新学期の自己紹介で声上ずりながらもカミングアウトした私。
クラスの子達もイタズラすることなく、他のクラスにも同じようにカツラの子がいて、一人ではない安心感から少しずつ気持ちは前向きになっていきました。

とはいえ、一年生の間はまだ治療が続き、バス通学も辛かったーーバス酔いしてはバス停のベンチで居眠りして遅刻したり、学校に辿り着いても保健室直行したり、はたまたバスで居眠りして乗り越したり……制服からどこの高校か判っているバスの運転手さんに車内放送で起こしてもらったり。

「次は、〇〇〜〇〇です。△△高の学生さんは次でお降りくださ〜い」

同じく制服で高校が判るお客さんに「あなたここで降りるんじゃない?」と体揺さぶられ、慌てて降りるなんてことも。
顔から火が出るほど恥ずかしかったのですが……性懲りも無く繰り返しました。今思えば、本当に体力なかったんだなぁと痛感です。

コンプレックスになりかけていたカツラも、二年生になる頃にはだいぶ生え揃って、カツラなしで通えるようになりました。
ただ、カツラを取ると日差しが直接頭に当たるので、マダム日傘は三年になるまで手放せませんでした。

お年玉費やして購入したカツラも、身に付けなくなると不用品です。でも、捨てるのは何だか惜しくて、たまに手入れしつつ数年手元に置いていました。

がーーある日、劇団所属していた知り合いから「カツラなど備品揃えるお金がなくて」という話を聞いて、二つとも譲ることにしました。

化繊のカツラでしたし、変な情念は宿っていないだろうと譲りましたがーーその後どうなったのかは、謎です。(笑)


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何が何でも、四年制大学に入りたかった私は、高校生活はとにかく内申点を稼ごうと決めていました。当時、私が入学した私立の女子高はレベル的には正直言ってとても低い高校で、四年制大学に合格する生徒は数えるほどしかいませんでした。

そこで、まず図書委員会に所属。委員会役員になれば生徒会に参加した事になり、若干内申点を稼げます。次に部活……これは、一年生の間は欠席が多かったので二年生から本格的に参加。美術部に入部しました。

そして、肝心要は中間期末のテスト。レベル低い高校だったので、テストが近くなるとどの教科の先生も生徒に点数取らせようと頑張っていたと思います。

「ここ、出すぞ」

とズバリ言う先生から、

「ここは特に重要」
「ここはチェックポイントです」
「ここ、大事だから」

と、遠回しにテストに出す内容を暗示する先生までーーとにかく、ある意味、とっても親切だったのです。

授業に参加できた時は先生の言葉を一語一句漏らさず聞いていた私。一年の二学期にはその事実を把握しました。以来、先生が「重要」とか「チェックポイント」とか授業中に言うと、教科書やノート、その問題を赤枠で囲って『丸暗記』しました。

中学での勉学基礎がなかった私でも、何故か暗記は得意だったので、公式や文章、回答、解説に至るまで全て暗記してテストに臨み……ほぼ満点に近い成績をゲット。
つまり、授業は先生が『大事』と言ったところだけを丸暗記、テスト、高得点ーーを三年間繰り返したのです。

だもんで、学校を休んだ次の日は、クラス中の子に、

「ねえ、昨日の授業で先生『ここ重要』とか『ここ大事』とか言ってなかった?」

と聞いて回っては呆れられていましたーー初めのうちは。でも、それを散々繰り返していくうちに、私がそれで良い点数を取っているのも知れ渡り、『山かけ大明神』などと呼ばれるようになりました。

私は山なんてかけてない! 先生が『ここ(テストに)出すぞ』って言ってるじゃん!!

学校のレベルが低い、という事は、こう言っちゃ身も蓋もありませんが生徒のレベルも……自分を含めて、ね。
学校に行くのが精一杯だった高校生活も、二年・三年と上がるにつれて、少しずつ充実していくようになりました。

あの頃、人生がかかっているとはいえーー半ば脅すように、

「先生何て言いよった? どこ大事って言いよった?」

と聞いて回った私ーー応じてくれたクラスメイトに感謝です……

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小学二年生からお小遣いスタート、毎月四百円で中学と高校一年までは五百円……だったと思います、多分。うろ覚えですがーー二年からは千円、三年千五百円で高校生活を送っていました。

が。高校生になると、放課後のお付き合いなど増えてきて、もらっているお小遣いだけではとてもやっていけませんでした。
最初のうちは断ったりおごってもらったりしていたのですが、ずぅっと友達にオンブにダッコも心苦しく、そのお礼代わりにトランプやタロットカードで占いをしてあげていました。

女子高であった事も幸いして、占いでのお返しは殊の外ウケました。むしろ、「おごってあげるから占って」「占いで気持ちだけでもお金取ったら?」なんて言われるようになりーー占いだけの時は一回五十円程度で始めたら、これが大当たり。

本当は校則で禁止されていたのですが、誰も先生に密告する子はいませんでした。おかげで、コッソリたくさん恋占いをやって小遣い稼ぎができました。
けれども、『占いは自分の幸せを切り売りする商売』『幸せにはなれないけどお金持ちにはなれる商売ね』と、テレビで本物の占い師が言っているのを見て、見ず知らずの子を占うのはやめました……


さて、占いをやめると他に収入源が必要になりますーーその時、短編小説に挿絵を描いて同人誌を作っている子が「最近、スランプで文が書けないからどうしてか占って」と持ちかけられ、

「どんな文なの? 代わりに書こうか?」
「えっ、いや、その……いいの?」
「いいよ、自分が書いたことにしとけば」

と、いう訳で……その子の他、彼女の同人誌仲間のゴーストライターになりました。こちらは収入に波はありましたがーー冊子の売れ行き次第ではジュース一本とかーー占いの時よりは、気持ちも幾分楽でした。(笑)


高校三年間、点取り虫になる事に決めてはいたものの、まだ治療の副作用などで一年生の間は欠席も保健室通いも多かった私。
周囲にいた子達には、本当に色んな意味で助けられました。
お小遣い稼ぎも、ね。

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普通の中学校であったら、確実に留年していたでしょう……私が通っていた中学校には特例のようなものがありました。生徒が学校に行かなくても、担任が家庭訪問をすると出席扱いになっていたそうでーー入院中も、自宅療養中も、担任は頻繁にお見舞いに来ていました。



今思い返すと有難い事と思えますが、当時は煩わしい事この上ありませんでした。顔を合わせる回数が増える度、学校に行けない事への説教だとか励ましだとか……



うるっさい! あんたに私の何が解るってんだ !! 



そんな気持ちでいっぱい。



治療(副作用)の辛さを解ってくれない、受験生という肩書きも心追い詰めていた頃の私には、大人に投げかけられる言葉は全て『棘』か『毒』にしか思えませんでした。



とはいえ、『受験生』である事はどんな事があろうと変えられません。留年でもしない限り。留年がなければ高校浪人? 本気でそこまで考えていた頃。当時、校長経験のあった母方祖父が、病気や障害のある子を受け入れる特別クラスを設けている私立高校の校長に話をしてくれて、本来なら枠を取るのも不可能だったであろう『推薦枠』を高校で用意してくださいました。



わざわざ用意して頂いた推薦枠です。留年する訳にも、推薦枠を蹴る訳にもいきません。中学三年間、ほとんど実になる勉強はしていなかったのですが、不幸中の幸いは入院中に(何故か母が文庫本を買ってきていた)明治大正文学をほぼ読破していたこと。

推薦試験は(うわー全然覚えてない)確か、三科目だったかと。とても寒くて、膝掛けにカイロもたくさん持って試験に臨んだのは覚えています。



私立の推薦試験は、当時高校入試期間でいうと最も早く行われていたーーのではないかしら。←これまた記憶曖昧ですみません……

皆が受験に悩まされている中、同じく早々受験クリアしたクラスメイトと三人で、美術館であっていたエジプト展見に行った覚えが(我ながら受験生らしからぬ行動(笑))。



人生において、初めて、自分の人生計画を真剣に考えた年でした。




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カツラデビューした中学時代、私は一部の友達にしか自分がカツラをかぶっている事を明かしていませんでした。けれども、いつ見ても全く変わらない髪型ですもの、大半の子は薄々気づいていたと思います。
ましてやそれが三年目ともなればなおさら……当時は、日傘と同じくウィッグもマダムアイテム。若い子が自然に着けられる髪型など、まだありませんでした。
なので、私はカツラをかぶらなくても大丈夫な頭になるまで、同じ形のカツラを二つ使い回していたのです。

クラスの子達はその事について、見て見ぬ振りをしてくれていましたし、口にする事もありませんでしたが、他のクラスの子達は事情を知らないだけに、後ろから髪を引っ張ってきたり頭をはたいたりーー容赦ない好奇心のイタズラを仕掛けてきては私を悩ませました……

自分が思うことを、相手に伝わるような言葉にできなかったあの頃。本当に生き苦しい思いをしました。

そんな中、そのイタズラの集中砲火を浴びる事態がついにーー三年最後のクラスマッチの時に起きました。
当時の事を思い返すと、色々単位の足りなかった私のために、担任が考えたのだろうと思います。

「体育の成績上げるからクラスマッチに参加しろ」

二学期も同じ理由で持久走大会に参加させられました。「体育3やるから参加しろ」と言われて何とか完走(いや、歩き通)したけれども成績表を見たら『2』。

もう騙されない!

散々渋ったものの、体育の先生もやってきて『約束するよ』というので……仕方なく、クラスマッチに参加しました。男子はサッカーで女子はバレーボールでした。

ところが、クラスマッチの対戦相手が初っ端から、いつもイタズラを仕掛けてくる子のチームだったのが運の尽き。
しかもその子はそこそこ運動神経の良い子で、何かと動きの鈍い私に球をよこすのです。そのうち相手チームの他の子まで私を狙いだしーーついにはスパイクまで食らう羽目になりました。

同チームの友達がフォローしてくれてはいたものの、ついにーー恐れていた事が起きました。


ボールが頭に直撃、その後どうしたか全く覚えていません。気づいた時は用具室にいて、泣いていました。カツラは友達が拾ってくれたようです。

試合どころではなく、成績は結局『2』。同じ『2』なら、クラスマッチなんか参加しなければ良かった……心に大きな傷ができただけでした。

髪をいじられるイタズラもエスカレートしかけましたが、私もいい加減、怒り爆発。その子に思い切りビンタ喰らわせてイタズラ終了。私かて、かつてはヤンチャな超健康優良児、売られた喧嘩はきっちり返させていただきました。

とはいえーーカツラが公衆の面前で取れてしまった事実は変わりません。

いっそ、全校生徒の前で

「私はカツラだぁっ!! 引っ張るなバカチンがぁ」

って言える度胸があったらなぁ←今なら言えるのに(笑)

当時人気アイドルの歌にありました『ガラスの十代』ーー当時の私の心は、もう砕け散っていました……

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中学二年の秋ーー萩・広島ーー修学旅行は行かないというか、行けないと思っていたところ、学校から『保護者同伴なら』という条件で、父方祖母が付き添いで修学旅行に行くことになりました。
行けたことは嬉しかったのですが……その実、バス酔いするは、歩いて回る同級生について行けないは、楽しかったというよりむしろしんどかった記憶しか残っていないのがなんとも。

行程はほとんど覚えていないのですが、ちゃんと見学できたのは平和公園入口、宮島の鹿。秋芳洞ではバス酔いが酷く、私の代わりに祖母が見学、戻ってくる時に観光バスの人数分串団子を買ってきて配っていたのを覚えていますーーお祖母ちゃん、ツアーで来たんじゃないんだよ? 修学旅行だよぉ!!

宮島では、本殿を回る体力的自信がなかったので、お土産売り場で祖母が買い物するのと鹿の餌やりをぼんやり眺めていました。
しばらくすると、何故か私の周りに雄鹿が集まり始め、そのうち取り囲まれて動けなくなりました……ちょうどその時、集合の笛が。

※ 写真がないので、鹿に囲まれた人の画像から鹿をトレースさせて頂きました……
 多分、端から見たら、こんな感じだったと思われる図


祖母はまだお土産売り場にいてこちらに気づいていない様子。私は生徒を集める先生に呼ばれましたが、角に阻まれてにっちもさっちもいきません。

「おーい、サヤネコー! 早く集合場所に行きなさーい」
「そんなぁ! 先生、助けてくださーい」
「いや、それは無理! 自力で何とかしろー!」

自力で何とかしろ、なんて……あんまりだ。

見るに見かねたらしい鹿の管理人さん(?)が助け出してくださり、そこでようやく祖母も駆けつけ、二人遅れてクラスに合流ーーとても恥ずかしい思いをしました。

こんな目に遭ったせいか、鮮明に記憶に残っている修学旅行の思い出は、雄鹿に囲まれた事だけ。稀な体験であったのに、写真も残っていないのが残念でなりません。

ーーてか、もう修学旅行じゃなくて、散々な観光旅行の思い出だわ。(笑)

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プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
46
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。

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