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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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父方祖父母の家に居候することになってから、病院の通りに面したお宅には祖母に付き添われてご挨拶に回ったのですが……どこに行っても、

「あらまあ、あんなにちっちゃかったさやちゃんが、すっかりお嬢さんになって!」

と、誰からも知られているのが、ある意味脅威でした。絶対悪いことできません。

祖父が毎週末食べていたお刺身を受け取りに行く度に、魚屋のおばちゃんには私が小さい頃の話を色々と聞かされました。
中には、親や祖母すら覚えていなかった事まで聞いてびっくり。町内盆踊りのカラオケ大会で1等賞を取っただの、魚を冷やす氷を捨てていたらそれを拾って食べただの……うげー……3歳頃の話らしいのですが、記憶にございません、ハイ。

文具屋のおばちゃんには、ほぼ毎年長期休みに顔を見せていたのに、魚屋のおばちゃんと同じリアクションで更に耳に痛い話を……

「そうそう、さやちゃんったら、こぉんなにちっちゃかった頃ね、バス停に人がいっぱい集まってる時にピンクレディとか石川さゆりとか歌っていたんよ。今でもソラで歌えるんじゃない?」

祖父の病院は、バス停の真ん前にあります。祖父いわくバス停が後にできたそうですが真実はどちらでもいいですーー穴があったら入りたい。

そして、どの人も必ずやるのが、『ちっちゃかった私を表す仕草』。これがまた、皆一様に同じセリフでやるものですから、まるで自分が頭をペシペシされている気分になりました。



はてさて。ご近所の挨拶廻りも済んで、入学式まで後数日ーー早くも、祖父が言っていたように『どうして地元の大学を受けなかったのだろう』とか、部活(サークル活動)はどうしようとか、悩み噴出して憂鬱になりました。

ああ、おうちへ帰りたい……繰り返し杞憂に囚われたあの頃。学生生活スタート時、心はまだまだ、完全な前向きにはなってはいませんでした。
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私の祖父母は、私が大人になるまで父方も母方も健在でした。小学生の頃は、割と普通だと思っていましたが、中学生になると、

「うちとこはお祖父ちゃんお祖母ちゃんおらん。顔も知らん」

という子が多く、両家祖父母が生きている事自体、珍しがられました……

私の記憶は曖昧ですが、盆正月はほぼ父方里、その前後に母方里へ行っていたと思います。


母方里は、今も田園風景が残る里山的田舎で、祖父の弟夫婦もすぐ近くに住んでいて、子どもがいなかった大叔父夫婦にもとても可愛がられました。その実、私は祖父より大叔父の方が好きでしたーーごめんねお祖父ちゃん。

祖父は校長まで出世した教師人生まっしぐらな御仁で、良く言えば真面目で物を教えるのが上手。悪く言うと物を教えるところからだんだん自慢話や見栄張り話に発展して、収拾つけるのが大変。
一方祖母は、どちらかというと寡黙で、知らぬ間にあれこれしてくれている人で、「この野菜美味しかった」と言うとそれをずっと覚えていて、遊びに行くと必ず用意してくれている、そんな素敵な人柄でした。

父方里は、今は観光メインが山手に移ってしまって過疎化が進む元保養地。私が大学生時代に居候していた時は、まだ商店街も残っていて、しかも、商店街中の人が私の小さい頃を知っていて(弟が生まれる時に預けられていたのと、2〜3歳頃、父方里家の離れで暮らしていたため……と思われ)、大学に入ってご近所に買い物に行くと、

「まぁー、さやちゃん!? こぉんなにちっちゃかったさやちゃんが、大きくなったわねぇ」

ーー小さい頃は知れた顔だったようです、記憶にありませんが。

それはさておき。

祖父は、現在は引退していますが、当時は現役医師で、学生時代の採血検査は祖父の病院でやってもらっていました。一応、健常者数値ではありましたが、下限スレスレでしたね。祖父は戦時中は軍医で「大和に乗るところだったんだ」と、冗談とも見栄とも取れるような事を繰り返し聞かされーー小学生の頃、その話の流れで1メートルサイズの戦艦大和のプラモデルを買ってもらったこともありました。母方祖父と同じく自慢話が始まるとお茶を濁すのが大変……
祖母は、自身が二人息子を産んでことごとく裏切られた感があったようで、まだ私がお腹の中にいる時、母に、

「私、男の子はいらないからねっ」

とまで言わしめていたほど。つくづく、私、女に生まれて良かった。

念願叶っての女の子でしたから、それはそれはもう、猫っ可愛がりされました。私は自他共に認める「お祖母ちゃんの秘蔵っ子」でした。



大人になるまで、両祖父母が健在であったことは、とてもありがたいことだと思います……現在、母方は祖父母とも星になり、父方は祖母が星になりましたが、孫の中では私が一番、愛情を注がれたと思っています。

祖父とは揉めること多々ありましたけど、ね。(その実、父方祖父との諍いは現在進行形ですが(苦笑))

絵を描くことはとても楽しく、入院した時は、自分自身や周りの人への慰めや励ましにもなる素敵ツールの一つでした。

けれども、子どもの頃は、図画工作の時間は苦行でしかありませんでした。折り紙は好きだったけれど、絵を描くのは嫌で嫌で。
そのくせ、絵画センスを持つ子がいると男女問わず、羨ましくも憧れ、おかしな話かもですが、好きになったりしていました。

1〜2年生の時同じクラスだったM君、3〜4年生の時はMさん、5〜6年生の時はOさん、N君。絵を描くのがうまくて好きでした。

何故、男女問わず惹かれたのか当時の深層心理は解りません。

絵が上手いM君の事が好きだった全盛期の2年生2学期、あれは平和学習の時だったから、もしかしたら、夏休みの出校日だったかもーーのある日。
少し年配の男の先生が副担任として来られました。確か、大きい城で大城先生だったと思います……お名前出してすみません。どうしてもお礼の気持ちを伝えたくて……私は、大城先生のおかげで絵を描く事が大好きになりました。

話を戻しますね。

小学時代は6年間、担任に不信感募らせ続けていた私。大城先生が副担任で教室に来られた時も、話などこれっぽっちも聞いていませんでした。ところが、不意に、

「莢猫さん」

と名前を呼ばれて慌てて先生を見たら、先生は空中でパッと何かを掴む仕草をした後、

「僕は今、あなたの視線を掴みました。あなたはもう、僕から目を反らせませんよ」

と仰いました。すると不思議なことに、本当に目が反らせなくなったのです。よそ見をしていた子等は次々に名前を呼ばれては視線を捕まえられてーーその印象が強すぎて、その後何を話されたのか忘れてしまいましたが、美術担当で図画工作を受け持つと言われた……と思います。

大城先生の最初の授業は校内スケッチでした。私が嫌々ながら画用紙に向き合っていると、

「僕、学校の近くの公民館でお絵描き教室やるんだよ。良かったら遊びにおいで」

と言われ、絵を描くのは嫌だけど先生は好きになっていたので(笑)、遊びに行ってみることにしました。

そして、放課後。公民館に行ってみるとーー床にはブルーシートが敷き詰められ、その真ん中に大きなバット、中には生のサバとアサリが入れてあって、それを囲むように数人の子どもが座っていました。

「やあ莢猫さん。よく来たね。ここに座って」

座るなり画用紙を渡されて、

「そこのサバ、描いてみようか」

やっぱり描かされるのね……半ば諦め気味に、適当に魚の形を描くと、

「おや、ヒレはどこ?」
「目の大きさってどのくらいかな」
「尻尾は本当にこんな形?」

先生に言われてサバを見直すと、自分が描いたのとはだいぶ違っていて、直していくうちにそれっぽい形になってきました。

「それじゃあ、色を塗ろうか」

その後も、見落としていた所を指摘してもらって色を塗り上げたら、本物のサバらしく描けました!

「絵を描く時はね、描きたいと思うものをよぉく見ること。よく見ながら、少しずつ描いていくといいよ」

先生の丁寧な指導のおかげで、少しだけ絵を描くのが好きになった私。先生のお絵描き教室には毎回参加して、うまく描くというよりは楽しく描く技を習得しました。
低学年では苦痛だった図画工作も、高学年になると待ち遠しい教科になり、中学高校では美術部に入部。

一時、美大系の進路も考えた私は、高校2、3年の夏休みに予備校のデッサン夏期講習にも行きました。
その頃は花のデッサンにはまっていて、レコードや電球を描くのは全然楽しくありませんでした。たまに一輪だけ花が配られる事があって、そんな時は花だけ目一杯描き込んで、

「花だけ満点」

なんて言われたり。講習期間中、数回来られる球美の先生と武蔵美の先生からは、

「うちの大学受験する時は、花持ってきなさい。試験課題の静物払い落として、『私はこれを描きます!』って花描きなさい。合格にしてあげるから」

と冗談交じりに言われて真に受けました。(笑)

習い事としてのお絵描きはここまででしたが、大学在学中も社会人時代も、花の写実画や抽象画、ルーズリーフの空きスペースにはフニャ絵を描き続けーー

入院中は、自分が取り替えたトイレットペーパーの芯にボールペンで絵を描いてました。これが病室の人達にウケて、次々描いていくうちに、ただのトイレットペーパーの芯がもらわれていく物になりーー
同室だった方々とは住所交換して、以来、毎月欠かさず絵手紙を送っています。

絵を描く楽しさを教えてくださった大城先生……人生観が変わるほどの大きな宝物をくださって、本当にありがとうございます。

今でもはっきりと思い出せる習い事での出来事です。

それは、弟が通い始めたお習字教室に自分も行くことになった初日ーーちょうど、学校でも教科科目に習字が入ってきたので、母にとっては渡りに船だったのかもしれません。

今もなお、ですが、私は字が汚い子でした。母はそれが苦痛でならなかったようで、二年生の冬休みには宿題以上の枚数、『書き方』のお手本写しさせられました。

今でも文章覚えているほど……

くまの子ウーフの朝ごはんは、パンとはちみつと目玉やきでした。ウーフのお母さんは、かた手でたまごをポンとわって、フライパンでやきました。(漢字は曖昧ですが文章はこんなでした)

それまで大好きだったウーフが、ちょっと嫌いになりました。(苦笑)

そんな経緯があったため、正直乗り気ではありませんでしたが、先生は同じピアノ教室に通っている子のお母さんだと知って、少し気が楽になったもつかの間。

最初の一枚で筆を潰した(ついでに暴露すると紙も破った)私を見た先生の顔が、ムンクの『叫び』になっていました。しばらく沈黙のち、

「どうも、さやちゃんに毛筆は合ってないようだから、硬筆に替えましょうね」
「コウヒツって何ですか?」
「鉛筆で書くのよ」
「 !! 」

ウーフの悪夢、再び。

6年生になってからようやく『三級』にまでなりましたが、そこからは中学生になっても伸び悩み、母もいい加減、諦めてくれて辞めました。

つまり、今の私の文字はぶっちゃけ『硬筆三級』以下です。(暴)


でも、今は、筆書き大好きです。絵手紙にはいつも筆ペンを愛用……
書きじゃなくって、描き、だわ……
社宅からスーパーへ行く途中、ピアノのレッスン場がありました。はっきりとは覚えていないのですが、その音を聞いて、母に「あの音なぁに? 私もやりたい」みたいなことを言ったと思います。

母は一念発起。当時50万くらいしたのではないかしら、私の好奇心のためにライトアップピアノを購入したのです。当時、父の給料は2万行くか行かないか、どうやりくりしたやら、とんでもない暴き……ゴホンゴホン、とにかく社宅で一番最初に、家にピアノを置くことになりました。

今40代の私でも、50万ポーンな買い物は熟慮します。当時20代の母は、清水の舞台どころかグランドキャニオンから飛び降りる勢いだったと思います。

さて、自分から始めたいと言ったピアノですが、先生より母が鬼でした。(笑)

自分が昔、習い事をさせてもらえなかったという反動と、何でも「できて当たり前」的家庭環境に育った母は、一つのミスも許してくれません。習いたて早々からそんなに完璧に弾けるはずもなく、酷い時は椅子から蹴落とされたり定規で手の甲叩かれたりしました。

せっかく「やりたい」って始めたのに、これじゃ逆効果でしょーに……

と今では思いますが、母もまだ若かったし、ピアノ高かったし、必死だったのだろうとーーしかし、ほんと酷かったな。歳を重ねるにつれて、虐待と紙一重な(笑)折檻はなくなりました。

そんなスパルタママが一段と熱帯びたのが、これもまた発表会前。どうしてバレエといいピアノといい、いちいち舞台に立たなんいベントがあるのでしょう。

私はこのイベントが大嫌いでした。

何故かというとーーその実、小心者だったから。バレエは間違えても多少アドリブ利きますが、ピアノは音そのものなのでミスが明確に判ってしまいます。それが嫌で嫌で堪らないのに、発表会になると、普段の練習以上にミスして収集つかなくなってしまうのです。

いわゆる、負の連鎖ってやつですね。間違えてもいいから楽しく弾こう、ではなく、間違えたらもうダメだと思っていたのです。
当時のピアノの先生は超がつくほど生真面目な先生で、レッスンもバイエル・ブルグミュラー・ソナチネといったセオリーカッチリレッスン、母もこれまた四角四面に『できて当たり前』を押し付けてくる人でーー私、よくピアノ嫌いにならなかったなぁーーなんて思えるほど、叱られてばかりのレッスンでした。

入院してからは、自宅に来てくれる近所の母友先生のアイデアで、セオリー通りのソナチネやバッハの他、映画のサントラなど簡単に譜面に起こした教本を選んでくださって、少しずつピアノの楽しさが感じられるようになりました。

高校生になると、通える時に学校帰りなどに寄れるレッスン場で初等教育に必要なグレード資格取得を勧められて、聞き取り譜面起こしや声楽もやりました。これはこれで面白かったです。楽しめたから続けられたのかもしれません。

大学に入ると今度は、年に一度祖父の病院に来られるプロのピアニスト(肝心のお名前忘れました……女性です)がレッスンしてくださいました。タダで。(笑)
この頃になるともう、ピアノは遊びで弾く程度。

社会人になって、数年後。実家を改装する時に、母から電話が。

「あんた、ピアノ引き取っちゃらん?」
「引き取っちゃらんて、六畳一間のおんぼろアパート住んどぉのに、無理やろ」
「そうかて、改装の邪魔になるっちゃもん。あんたのピアノやけん、あんたが何とかして」

邪魔になるってあーた。その昔、六畳二間にデデーンとピアノ置いとった御仁が何を言いなさるやらーー
急遽実家へ帰り、電話帳で中古ピアノを送料無料で引き取ってくれる業者を探し、最終的に出張買取をしてくれる中古楽器業者に電話して……その日のうちに、5万円で引き取られていきました。

元は、母がグランドキャニオンから飛び降りて購入したピアノです。5万円は母に受け取ってもらいました。

その後。実家にピアノはなくなりましたが、結婚後しばらくして、夫が電子ピアノを買ってくれました。

たまに、弾いています。猫踏んじゃったとか。(暴)

物心ついた時には通っていたので、始めたきっかけは全く覚えていません。ややおデブ(今時の言葉だとポッチャリ)だった私は、約10年バレエやりましたが全然細くなりませんでした。
今思えば、その分食べていたのだろうと思います……食い意地張っていましたから。

それはさておき。

体もそんなに柔らかくないおデブでしたがーー踊るのは大好きだったので、バレエに行くのはそんなに嫌ではありませんでした。
母方祖母には、

「ファンタジア(ディズニーのクラシックアニメ)のカバさんバレリーナみたいで可愛かったぁ」

と、何度も言われていたほど、端から見ればそんな感じだったのでしょう。←いくら可愛いと言われても正直あまり嬉しくなかった(苦笑)

レッスンに通うのは苦でなかったけれど、ほぼ強制参加で嫌なイベントが発表会でした。バレエを辞めようと決意したのが、最後の発表会。

三人、七人、八人、五人と当然の事ながら一人で舞台に立つ機会はありません。その自分にとって最終演目、五人で踊っていた時のこと。
かぶりつきの席を陣取っていた私の母他、社宅の母友達の会話が筒抜けで……


バレエの発表会に出る子達は、舞台映えするようにほぼ皆同じか似通った衣装、顔は全く同じメイクで、遠目にはどれも同じ顔に見えます。多分。

その母友と母は、舞台下で顔がはっきり見える席に座っていて、声もはっきり聞き取れました。

友「ねえ、さやちゃんどれ? みんな同し顔でよぉ分からんっちゃけど」
母「えーとね、ほら、右から二番目。一番足の太かと」

……説明は『右から二番目』までで、いいっちゃない?

デブは自覚していましたが、ヒトに指摘されると腹が立ちます。それを他でもない、母が言うなんて!!
これ以上バレエを続けるのは不毛だと思った瞬間でした。

母方祖母はバレエを辞めることを惜しんでくれました。が。
いかんせん、彼女の私に対するイメージは、死ぬまで『カバさんバレリーナ』でした……まあ、いっか。祖母一番のお気に入りキャラだったもの……
大のオトナでも心砕けそうな告知……ですか……確かに、ガンを患った方々の話を聞いていると、そのように仰る方もいました。けれども、なってしまったものはしょうがない。
逆立ちしたって、その事実は変えられません。当時どうして「あーやっぱり」とサラっと思えたのか、実は、あの時も今もよく分かっていません。
多分私は、他の人より図々しいというかノー天気というか、良くも悪くもバカ??(笑)
空気読めないとか、天然とか、言われる所以がそこにあるような気がします。

病を嘆いて暮らすより、何か楽しい事・面白い事探して暮らす方が、よほどか有意義に生きられると思いますーーでも、きつかったり苦しかったりする時は、周りに遠慮せずきついの苦しいのさんざん言い散らしていますの←プラマイゼロ(苦笑)

G……この世から消えて欲しい昆虫なのに、アイツラとてつもない昔っから地球にいる生物なんですよね……人間ごときが敵う相手ではないのかもしれません。

昨年、伊勢参り・鈴鹿周辺の神社巡りに行ってから、良し悪しの見分けもぼんやりだけど判るようになりましたーーあれ? まさかの霊感アップ??

身内の霊は確かにイラっとしますね……私の所にはたまに父が来ます。「来るとこ間違っとぉやろ、妹んとこ行っちゃり!」って追い返しています。父が死んだ時、「絶対許さん、成仏させちゃらんけんね」と宣言してしまった手前、多少の相手はせなんかもです。←自業自得

私が通った高校は、辺りでは一番校則遵守を重んじる高校でした。それも、就職クラスの子達が社会人になって会社の秩序など乱す事の無いよう、校則による締め付けをより厳しくしているのだという説明を聞きました。
制服をきちんと着る、くらいならまだ理解できますが、どうして髪型にまでどうでもいいような規定を設けたやらーー教育実習でまさかの教師側からの風紀検査も体験しましたが、生徒に納得いくような説明はできなかったなぁ。
「この学校の校則は無駄に厳しすぎるところもあるけど、三年だけ我慢して。卒業した時に思い切り、髪型オシャレ楽しもうね」
って声をかけた記憶があります。

髪型の校則については、生徒手帳に頭部の図が載せてありました。頭のてっぺんからこめかみまでの「前髪の範囲」図は、生徒の間では「魔のトライアングル地帯」と呼ばれていました。
今でも、前髪を作る時はつい、頭のてっぺんから櫛を入れてしまいます。

子どもの頃はクセ毛で剛毛、量が多いと美容師泣かせの三点セット揃っていました。(笑)
特にバレエ(3〜12歳まで週一通っていました)の発表会などで髪を固めないといけなかった時、多分他の子の何倍もグリス必要だったかと……二日くらい、洗っても取れなかったです。
抗ガン剤と放射線治療後は、猫毛・クセ毛になりました。ヘアスプレーつけても「どうしたん、その寝癖」と言われるくらい、まとまらなかったあの頃←大学時代は髪が増える途上だったので、尚更でした。

雨降りの朝は山姥、メデューサとよく言われます。山姥と言われた時は「おどろくんでない(by花咲山)」、メデューサと言われた時は「石になれ」と返しています。(どちらも知らないとよく分からない切り返し(笑))

拍手、ありがとうございます。これからも毎日、更新していけたらいいなと思っています。
習い事にまつわる話もおいおい語っていきますので、お楽しみにーー





病名も知り、大学にも合格したものの、一人暮らしに断固反対したのは父方祖父でしたーー大学を受験する時から、あれこれ口を挟んできた祖父。というのも、大学は父方実家から4キロの所にあり、そのすぐ近くの看護学校で教鞭をとっていた祖父は、

「地元にたくさん大学があるのに、何故田舎で何もない所の大学を受験しないといけないんだ」

の一点張り。こちらの受験事情などまるで知らないのに、『ダメ』しか言わない祖父の言葉には耳傾けず、とにかく推薦試験を受けて合格した私に、

「もう知らんぞ。面倒見ないからな」

とまで言っていたくせに……いざ、学生寮などの物件を調べようとしたら、

「一人暮らしなんてとんでもない。(母の名前)は何を考えてるんだ。うちに住まわせなさい」

母は何も悪くないですよ、お祖父ちゃん。都合悪いことはすべて嫁のせい世代の御仁です。とても不愉快ではあったけれど、お祖母ちゃんは大好きだったので(私は自他共に認めるお祖母ちゃんの秘蔵っ子でした)、私は父方実家に居候が決まりました。

が。母方実家ほどではないのですが、父方実家も古い家屋でしかも温泉地、Gやらムカデやら青大将やら、規格外だろってくらい大きいのがいるのですーー



それは、一部屋もらって暮らし始めたばかりの頃でした。



入学式前(春休み中だったかな)で、引越し荷物もあらかた片付いた晩のこと。深夜、ふと目が覚めると、天井でかすかな音がしているのに気付きました。Gだったら嫌だなぁなんて思いながらうつらうつらし始めると、今度は何かが布団の上に落ちる音が。

物凄ぉく嫌な予感がする間もなく、右足の親指と人差し指の間に何かが這って、あまりの気持ち悪さに布団蹴たぐって飛び起きました!!

そこには何とも大きなムカデ。Gでなくてよかった……よかったのか?……私は風呂場へ行って使い終わりのタオルを持って引き返し、噛まれないようタオルでムカデを包み込んで、もう一度風呂場へ。給湯温度を80度まで引き上げて、タオルごと浴槽に放り込み、熱湯ぶっかけてムカデに昇天して頂きました。
(祖父が温泉嫌いで、温泉地に住んでいるのにお風呂はプロパン。何かもったいない)


足の指の股にじられただけだと思っていたのに、明け方くらいからしびれだして、朝見てみたら腫れていました。いつの間に噛まれたんだ?
しびれだけで痛みはなかったのですが、靴が履けないくらい腫れました……ムカデの祟りかしらん……

その後も、私が居候した部屋は時々ムカデが降ってきました。その度にタオルで掴んで熱湯昇天させましたーー南無阿弥陀仏を唱えながら。
文言効いたか分かりませんが、噛まれもせずに腫れることはなくなりました。(笑)
親切な友達と友達お母さんのおかげで、無事、四年制大学の推薦枠を押さえた私は、推薦試験を受けに大学へーー本当に、試験は選択制で世界史か日本史のみ、午前中筆記で午後から面接試験になっていました。

緊張のあまり『検非違使』をド忘れしてしまって、仕方なく、解答欄に『勘解由使』と書いたことを今でも覚えています。(笑)
※  検非違使(ケビイシ)も勘解由使(カゲユシ)も令外官
 詳しくは8世紀から9世紀の日本史を紐解いてね
 問題は『薬子の変後に設けられた役職は何か』でした

でも、そのおかげで幾分緊張がほぐれた私は、午後の面接は気合を入れ直すことができました。
面接官はズバリ日本史担当の先生でした。試験はどうだったと聞かれ、一問間違えたことを告白。その後、履歴書を見ていた先生は、

「あれ、もしかして〇〇(父方祖父)先生のお子さん……は、ないな。お孫さん?」
「え? あ、はい。祖父をご存知でしたか」

すると、先生は、ご自身が大学で教鞭をとられる前は高校の校長をしていらして、祖父は何とその校医をしていたという話をしてくださいました(初耳)。

……って、いやいやいや! 今、面接中ですよ? 思いっきり私的な話に逸れてますがなー!

けれども先生は嬉しそうに語られるし、水を差す訳にもいきません。

「いやぁ、懐かしいなあ。僕がお腹壊した時ね、先生にはお世話になったんだよぉ」
「は、はぁ、そうですか。それは良かったです」
「先生にはよろしく伝えてちょうだいよ」
「はい、必ず伝えます」

こんなやりとりしているうちに、面接時間終了。

「おっと、時間だ。それじゃあ僕、入学式で待ってるから。
 はい! 次の人ぉ!」



ほぼ雑談だったのに次の人が入ってきて、私は速やかに面接室を出るしかありませんでした。
しかも、受かるかどうかも判らないうちから『入学式で待ってるから』って……
高校受験では母方祖父の人脈に助けられた私。大学受験では図らずも父方祖父に助けられました。

その実、入学式で私に声をかけてくださった面接官の日本史先生は、たまに講義を欠席すると、

「姿は見えなかったけど、出席にしておいたよ。具合悪かったの?」

とお気遣い頂きました……代返無意味やったわ、ホント。(汗)
運良く高校入学できた私……点取り虫に徹する前に、入学してすぐからいろいろな壁にぶち当たりました。

特に、校則。入学したなら卒業するまで、その規則には従わないといけません。その規則の中でも厄介だったのが『髪型』でした。

私は入学してすぐ、風紀の先生に目をつけられました。カツラが校則に反するというのです。入学初日の風紀検査で槍玉に挙げられた私は、母に『カツラ証明書』なるものを実印付きで提出してもらって、何とか風紀検査をクリアしました。

その校則というのがーー

前髪は頭のてっぺんからこめかみ(耳の付け根あたり)までの範囲とし、眉につかないこととする。
眉を超えて伸ばす場合は、必ずヘアピンで全て止めること。

後ろ髪は肩につかないことを原則とし、肩を超える場合は必ずヘアゴムで結ぶこととする。
ヘアゴム・ヘアピンの色は、黒・茶・紺のみとする。

パーマ・染色は禁止。天然パーマ、あるいは生まれつきで髪の色が黒くない者は、その旨を記した証明書を提出すること。保護者の署名が無いものは認めない。髪色が薄い者は、黒く染めるのが望ましい。

確か、こんな感じの文言でした。

ちなみに、きちんとヘアピンで前髪を止めると『まると』、ヘアゴムで後ろ髪をきっちり結ぶと『まるむ』といって、髪を伸ばしてもいい合格点になりました。

当時ですら、「今時、戦前のごとオカッパ頭にしとるもんやらおらんやろ!」というご時世にこの校則。
一年のうちは反発して校則を守らない子が続出するも、風紀検査に引っかかるとその後すぐ風紀担当の先生に髪を切られ、自腹で髪を黒く染めさせられ……だんだん校則に従うようになってしまいます。それでも自分を貫きたい子は、退学するしかありませんでした。

実際、何人かの子は校則に従えずに退学していきました……当の私は、祖父のつてで入学できた高校ですもの、退学する訳にはいきません。
一年の時はカツラ着用証明書、2年になってカツラが要らなくなると今度は天然パーマ証明書を提出。←クセ毛は今もなお、です

薄らハゲを体験して髪をなるべく切りたくなかった私は、校則クリアするべく、眉超えの前髪はヘアピンで止め、後ろ髪はゴムでしっかり結びました。

ところが。こめかみのところの髪が……放射線治療のせいか細すぎて、何度ヘアピンで止め直しても、スルッと外れてしまうのです。
仕方がないので、風紀検査直前にヘアピンで止め直して難を逃れるも……風紀担当の先生の授業で、

「おいサヤネコ。その髪なんだ」

と指摘される始末。私はあえて先生の前でヘアピンを止め直して見せましたーー数分後。

「あー……親に一筆書いてもらえ」
「天パ証明書ならもう提出していますけど」
「いや、なんというかその……ウーパールーパー、じゃなくて、止めてもはねる髪の証明書だ」

日頃、冗談など口にすることのないカタブツ先生の発言に、クラスが静まり返りましたーー

その後しばらく、クラスメイトから『ウーパーさーやん』と呼ばれる羽目に……はねる髪については、証明書を提出して事なきを得ました、が。母曰く。

「こげなくだらん事で親のサイン求める風紀検査やらありえんやろ。聞いて呆れるわ」

仕方ないよ母さん……校則だもの。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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