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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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あなたの知らない世界とか、稲川淳二の怖い話とかーー弟と二人、タオルケットかぶってテレビに釘付けになっていた頃は、自分には全く関係ない怪談、作り話だろうと思っていました。

大病患うまでは。

最初に、いわゆる『心霊現象』と呼ばれるものを体験したのは、中学一年の二学期でした。
当時私の部屋は、薄い壁一枚隔てた弟の部屋と隣り合わせで、お互いのちょっとした物音も隣に筒抜けでした。

ある日、気分が悪くて部屋でゴロゴロしていたら、弟の部屋から嫌がらせなのか当てつけなのか、壁をベルトのような物で叩くような、バシンバシンという音がし始めたのです。

「ちょっと、やめてよ」

と言うと、ますます酷くなる。堪りかねて部屋を出て隣の部屋を覗いたら、誰もいない。私が部屋を出てきたから逃げ出したのかと思い、家中探して玄関へーーあれ、靴がない。
弟の部屋は玄関から一番奥の部屋にあるので、私が部屋を出るまでに家を出ようとするなら走り出るドタバタ足音と玄関ドアのバタンと閉まる音がするはず……

ふらふらしながら部屋に戻ると、また、壁を叩く音がするのです。子どもの頃に見た心霊番組で、そんな現象を『ラップ音がする』と言っていたのを思い出した私は、背筋が冷たくなるのを感じて、タオルケットをミイラのように体に巻きつけて耳を塞ぎましたーー

高校生になると『近づきたくない』と思う場所、いわゆる『心霊スポット』に気づくようになり、更に、鏡から手がにゅっと出てくるとか、膝から下だけの足が走るのとかーーもろ、見えちゃう霊感体質に!



大学生になると、今までパーツでしか見えていなかったものがーー


影のようなものでしたが、まさかの全身、しかも男の人っぽい姿で大きくて! さすがに気ぃ失いました……(そして、大寝坊。見事遅刻しました。 恨みーますぅ♪ by中島みゆき)



今では、『ここは近寄れないな』とか『ここ何かヤダ』くらいの霊感になりましたが、やっぱり、人が見えない感じないモノは見えない感じない方がいいです……

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頭文字(イニシャル)Gは、私が最も苦手な昆虫です。ムカデ・アブ・ハチを抜いてダントツです。

そいつは噛み付いたりしない代わりに、バイ菌を撒き散らす嫌な奴です……

それは、夏休みのある日のことでした。父方祖父母の家に泊まったその晩、きっかけはちょっとしたことでした。

Gが現れたのです。

その頃の私は、どんな昆虫もだいたい普通に触れられる女の子でした。それが現れた時は、もちろん害虫と知っているので、スリッパを構えて追い回しました。
特徴は、全身真っ黒でテラテラしていてとてもすばしこい。そしてーーその日まで、そいつはヤンバルクイナのように飛べない虫と思い込んでいました。

物のない壁際まで追い詰めたその時です。ヤツは、飛ぶはずのない翼を広げ、私目がけて飛びました!

当時、お気に入りのスカートにはっしとしがみついたヤツは、私がどんなに地団駄踏んでもスカートを振るっても離れようとしません。私は半ばパニックに陥りました……



どれほど時間が経ったやら、ようやく私のスカートから離れたヤツは本棚の裏に逃げ込みーー私は夏場でとても暑いのに、祖母のベッドで祖母と一緒に寝ました。

以来、馬と並ぶトラウマになりました。今でも、その姿を見かけると、日本語にならない叫び声を上げてしまいます……トホホ。
いつ頃からだったかは忘れましたが、確か二年生あたりだったと思います。2〜3ヶ月に一度、子ども向けの内容の劇やミュージカル、人形劇などを観劇する団体に加入していたことがありました。

その団体は観劇の他、バザーやサマーキャンプなども企画していて、学校以外のところで友達ができるのは楽しくもありました。
特にキャンプは3泊4日、親元を離れて子ども主体で行動できて開放的な気分になれたのを覚えています。

自分が入院してから闘病期間中だった中高時代はあまり参加できませんでしたが、大学生になってから2回、『青年』という子ども達を補助する役目でキャンプに参加しました。
このキャンプには、子ども劇場で演技を見せる側の劇団員さん達も多く『青年』として参加していて、そこで仲良くなった劇団員さんから、いろんなことを学びました。

子どもをお話しの世界に引き込む方法とか、子ども達が騒がしい時に自分に注目してもらう方法とか……あれ? もっと人生に役立つような話を聞いたような気がするのに……覚えてない……(笑)

何はともあれ、子ども劇場に行っていたことで、私の感受性はより豊かになったーーと思われます。小学生のうちから物語を書いてみたり、中学生で長編ファンタジーを書いたりしたのは、多分、子ども劇場のおかげだと思っています。



パソコン用眼鏡……って、あるんですか? 知らなかった……早速、探してみます。

家事に値段をつけて稼ぐ(お手伝いする)のって、子どもながら素晴らしい知恵!? 親の白髪抜き一本1円は私もやっていました。意外に時間がかかるので、私は100円までしか抜いたことありません。千円は凄い!!

人形の悪夢は……語ると長くなる(と思われます)ので、文章にする勇気が出ましたら、そのうち逸話に追加しますのでーー気長にお待ち下さい。ごめんなさい。
Gとムカデは私も大嫌いです!! これについては後日、逸話あたりで語ります。

修学旅行が保護者同伴というのは、中高どちらもありがた迷惑……いや、ついてきてくれた祖父母には感謝しています……ついてきてくれてなかったら、修学旅行の思い出すらなかったことになりますのでーーゴホンゴホン。お祖母ちゃん、お祖父ちゃん、ありがとう。

急性リンパ性白血病の告知については、本当に「あーやっぱり」という思いしか覚えていません。でも、確かに、病棟の本を読み漁っていたおかげで、それが緩衝材になっていたと思います。
予備知識もなく病名を聞かされていたら、ショック死ーーは、ないな(←図太すぎ(笑))ーー少なからず衝撃は受けたかと思われ……どうしても他人事のようになっちゃうのは、それだけ、無意識に避け続けた事実であったから、かも、しれません。
当時の心理は、本当に、その程度しか思い出せないのです……

たくさんの励まし、アドバイス、コメント、拍手、ありがとうございます。

これからもぼちぼちフニャ絵を書き足しては更新していきますね!

大学に入学する前の経過観察通院で、

「さやちゃんも大学生になるから、本当の事を話そうね」

と主治医に言われた私。すぐに、自分の病名のことだろうと察知しました。


入院中、病棟にあった本は全部読んでいたので、やっぱりそうかとしか思いませんでした。
病棟の本棚には、血友病・白血病・腎臓病など大人向けの本もあり、明らかに入院患者の親が読む本でしたーー中でも、白血病は自分の症状や治療サイクルとかぶっていたので、本当は解っていたのだと思います。

それでも頑なに『悪性貧血』と思い込み続けたのは、死と向き合うのが怖かったからだと思います。当時、白血病はガンと同じく『死病』のイメージが強かったから……

私は、この日から、安易に「死にたい」と思うのをやめました。

自分自身を追い詰め、ちょっとした周囲の言葉に追い詰められ、何度「死にたい」と思ったか知れない思春期。

18歳になっても相変わらず口下手で要領も良くない私でしたが、その時に何か一つ、乗り越えられたーーような気がします。
中学と同じく、高校生活にも受験期はやってきます。
私が通っていた高校は就職率はダントツに高かった(らしい)のですが、進学率はとても低く、大学進学は四年制より短期を目指す人の方が多かったように思います。

クラスの中では、四年制を目指していたのは私の他にもう一人だけ……だったような。その子も成績優秀で、彼女はすんなり受験枠を押さえられたのではないかしら。
欠課次数の多かった私は、またもそれがネックになり、三年になると憂鬱な日々を送ることになりました。

そもそも、体力作りのために大学に行こうと思っていたので、大学で具体的に何を学びたいとかそんな方向性はまるで頭になかったので、大きな落とし穴に落ちたような精神状態でした。

当時、図書委員で美術部だった私には、進路の選択は文系という漠然とした方向しか見えていませんでした。
連休明け、進路について保護者面談も近づいてきたある日、社会の担当教諭から、

「お前の得意な日本史だけの推薦試験をやっている大学があるぞ。私立だけど四年制だから、良かったら親に相談してみないか?」

推薦枠を押さえられるほど出席日数は足りていませんでしたが、相談くらいは……と、親や周りの友達にまで話をしていたら、なんと友達の一人が、

「うちの母さん、その大学の学長と知り合いなんだって。夏休みに同窓会で会うってよ。やけん、さーやんも一緒に会いに行かん?」


何ということでしょう! 私はすぐさま自分の成績と結果日数を数え直してメモし、親にもこの事を話して、夏休みーー友達のお母さんと一緒に大学へ行きました。
学長は私の話を聞くとすぐさま進路科の先生を呼んでくださり、進路科の先生からは直に名刺を頂いて、

「もし、校内で推薦枠を取れなかったら、大学の方から推薦枠を斡旋しますので、こちらに連絡してください」

と確約して頂きました。

思わぬ形で道が繋がった私は、俄然、勉強に励みました。今までは本当にただの丸暗記だった日本史も、きちんと歴史資料なども読んで暗記した内容に色を着けていきました。
高校受験も人づてに頂いた推薦枠、大学受験もまた人づてに推薦枠を頂きましたーー我ながら、数奇な運命ですね。とても有り難いことです……
私立の修学旅行は海外が主流であった当時、私が通っていた高校の修学旅行先はハワイでした。
中学修学旅行は父方祖母が同伴でしたが、高校修学旅行には母方祖父が同伴。
というのも、母方曽祖父はハワイ移民経験者で、祖父もハワイ大学で教鞭をとった事があったそうで、遠い親戚や知り合いもいるからと自ら同伴に名乗り上げ……

現地では、ほぼ、祖父とは別行動でした。(笑)

修学旅行でハワイに行くのを、祖父はどのようにハワイ在住の知り合いに伝えたのかーー全く分かりませんが、自由時間にその方達にお会いして、英語日本語ちゃんぽんの挨拶をした記憶があります。祖父との会話も英語日本語ちゃんぽんでした。

次の日、ホテルのフロントから名指しで呼ばれた私は、フロントの前に置かれた六人家族用くらいのテーブルサイズワゴンの上に乗ったモノを見て驚きました!

テーブルの上一面に、ココナッツケーキ!!

祖父の知り合いが、私に差し入れしてくれたとか。いやいやいや、修学旅行で来てるんですけど!?



あまりにビッグな差し入れに困惑……とりあえず、自分のクラスの人数と部屋番号を伝えてホテル側で切り分けてもらって、部屋に直接運んでもらいました。

その後も、ハンバーガーショップでは飲み物やポテトのSサイズが日本のLサイズだったり、売っているTシャツのサイズが違ったり(どう見てもLLサイズなのにMサイズと表示)。

祖父にケーキのお礼どうしようと相談した挙句、その年のクリスマスにお礼状を書いて送りましたがーーハワイにいると身も心も大きくなるのだろうかと思った修学旅行でした。
中学で泣く目にあったカツラ傷心を克服すべく、高校では、新学期の自己紹介で声上ずりながらもカミングアウトした私。
クラスの子達もイタズラすることなく、他のクラスにも同じようにカツラの子がいて、一人ではない安心感から少しずつ気持ちは前向きになっていきました。

とはいえ、一年生の間はまだ治療が続き、バス通学も辛かったーーバス酔いしてはバス停のベンチで居眠りして遅刻したり、学校に辿り着いても保健室直行したり、はたまたバスで居眠りして乗り越したり……制服からどこの高校か判っているバスの運転手さんに車内放送で起こしてもらったり。

「次は、〇〇〜〇〇です。△△高の学生さんは次でお降りくださ〜い」

同じく制服で高校が判るお客さんに「あなたここで降りるんじゃない?」と体揺さぶられ、慌てて降りるなんてことも。
顔から火が出るほど恥ずかしかったのですが……性懲りも無く繰り返しました。今思えば、本当に体力なかったんだなぁと痛感です。

コンプレックスになりかけていたカツラも、二年生になる頃にはだいぶ生え揃って、カツラなしで通えるようになりました。
ただ、カツラを取ると日差しが直接頭に当たるので、マダム日傘は三年になるまで手放せませんでした。

お年玉費やして購入したカツラも、身に付けなくなると不用品です。でも、捨てるのは何だか惜しくて、たまに手入れしつつ数年手元に置いていました。

がーーある日、劇団所属していた知り合いから「カツラなど備品揃えるお金がなくて」という話を聞いて、二つとも譲ることにしました。

化繊のカツラでしたし、変な情念は宿っていないだろうと譲りましたがーーその後どうなったのかは、謎です。(笑)


何が何でも、四年制大学に入りたかった私は、高校生活はとにかく内申点を稼ごうと決めていました。当時、私が入学した私立の女子高はレベル的には正直言ってとても低い高校で、四年制大学に合格する生徒は数えるほどしかいませんでした。

そこで、まず図書委員会に所属。委員会役員になれば生徒会に参加した事になり、若干内申点を稼げます。次に部活……これは、一年生の間は欠席が多かったので二年生から本格的に参加。美術部に入部しました。

そして、肝心要は中間期末のテスト。レベル低い高校だったので、テストが近くなるとどの教科の先生も生徒に点数取らせようと頑張っていたと思います。

「ここ、出すぞ」

とズバリ言う先生から、

「ここは特に重要」
「ここはチェックポイントです」
「ここ、大事だから」

と、遠回しにテストに出す内容を暗示する先生までーーとにかく、ある意味、とっても親切だったのです。

授業に参加できた時は先生の言葉を一語一句漏らさず聞いていた私。一年の二学期にはその事実を把握しました。以来、先生が「重要」とか「チェックポイント」とか授業中に言うと、教科書やノート、その問題を赤枠で囲って『丸暗記』しました。

中学での勉学基礎がなかった私でも、何故か暗記は得意だったので、公式や文章、回答、解説に至るまで全て暗記してテストに臨み……ほぼ満点に近い成績をゲット。
つまり、授業は先生が『大事』と言ったところだけを丸暗記、テスト、高得点ーーを三年間繰り返したのです。

だもんで、学校を休んだ次の日は、クラス中の子に、

「ねえ、昨日の授業で先生『ここ重要』とか『ここ大事』とか言ってなかった?」

と聞いて回っては呆れられていましたーー初めのうちは。でも、それを散々繰り返していくうちに、私がそれで良い点数を取っているのも知れ渡り、『山かけ大明神』などと呼ばれるようになりました。

私は山なんてかけてない! 先生が『ここ(テストに)出すぞ』って言ってるじゃん!!

学校のレベルが低い、という事は、こう言っちゃ身も蓋もありませんが生徒のレベルも……自分を含めて、ね。
学校に行くのが精一杯だった高校生活も、二年・三年と上がるにつれて、少しずつ充実していくようになりました。

あの頃、人生がかかっているとはいえーー半ば脅すように、

「先生何て言いよった? どこ大事って言いよった?」

と聞いて回った私ーー応じてくれたクラスメイトに感謝です……

小学時代、男女の精神年齢差ってかなりあったような気がします。男子も集められて性教育のビデオを見たらしいのですがーー詳細は分かりません。いずれにせよ、小学中学年あたりから正しい性教育が必要でないかなぁと思います。
もし、自分に子どもがいたら、いつどのタイミングでと悩みそう……

同室で、ずっと子どもに付き添っていたそのお母さんは、長期入院患者の中では主的存在でした。入院中のゲン担ぎやジンクスに強いこだわりを持っている方で、(その子に比べると)短期で入退院を繰り返していた私の母とはまるで違う接し方をしてくれたお母さんでもありました。
言う言葉はどちらかというときつい物言いなのですが、芯は優しい、そんな感じでした。私と母が感情むき出しに言い争っている時は間に立ってくれたり、鉢植えの件もまるくおさめてくれました。
今なら住所交換などしてお礼の気持ちを表せたところ、当時は自分の事が精一杯で、誰とも住所交換しないまま……自分が病院に行かずに済むようになるまでは、病棟宛てに年賀状を出す程度でーー大人になって後悔して、現在に至ります。←住所交換できたら、余裕ある時に絵手紙描いている次第……

筆が乗る時に、皆さんにフニャ絵をお届けします。(笑)

拍手、ありがとうございます。日々、もたつきながらも、ペンタブを使いこなせるようになってきましたーーできるだけ、毎日パソコンと向き合う時間を作ろうと思います。




プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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