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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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小学二年生からお小遣いスタート、毎月四百円で中学と高校一年までは五百円……だったと思います、多分。うろ覚えですがーー二年からは千円、三年千五百円で高校生活を送っていました。

が。高校生になると、放課後のお付き合いなど増えてきて、もらっているお小遣いだけではとてもやっていけませんでした。
最初のうちは断ったりおごってもらったりしていたのですが、ずぅっと友達にオンブにダッコも心苦しく、そのお礼代わりにトランプやタロットカードで占いをしてあげていました。

女子高であった事も幸いして、占いでのお返しは殊の外ウケました。むしろ、「おごってあげるから占って」「占いで気持ちだけでもお金取ったら?」なんて言われるようになりーー占いだけの時は一回五十円程度で始めたら、これが大当たり。

本当は校則で禁止されていたのですが、誰も先生に密告する子はいませんでした。おかげで、コッソリたくさん恋占いをやって小遣い稼ぎができました。
けれども、『占いは自分の幸せを切り売りする商売』『幸せにはなれないけどお金持ちにはなれる商売ね』と、テレビで本物の占い師が言っているのを見て、見ず知らずの子を占うのはやめました……


さて、占いをやめると他に収入源が必要になりますーーその時、短編小説に挿絵を描いて同人誌を作っている子が「最近、スランプで文が書けないからどうしてか占って」と持ちかけられ、

「どんな文なの? 代わりに書こうか?」
「えっ、いや、その……いいの?」
「いいよ、自分が書いたことにしとけば」

と、いう訳で……その子の他、彼女の同人誌仲間のゴーストライターになりました。こちらは収入に波はありましたがーー冊子の売れ行き次第ではジュース一本とかーー占いの時よりは、気持ちも幾分楽でした。(笑)


高校三年間、点取り虫になる事に決めてはいたものの、まだ治療の副作用などで一年生の間は欠席も保健室通いも多かった私。
周囲にいた子達には、本当に色んな意味で助けられました。
お小遣い稼ぎも、ね。
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普通の中学校であったら、確実に留年していたでしょう……私が通っていた中学校には特例のようなものがありました。生徒が学校に行かなくても、担任が家庭訪問をすると出席扱いになっていたそうでーー入院中も、自宅療養中も、担任は頻繁にお見舞いに来ていました。



今思い返すと有難い事と思えますが、当時は煩わしい事この上ありませんでした。顔を合わせる回数が増える度、学校に行けない事への説教だとか励ましだとか……



うるっさい! あんたに私の何が解るってんだ !! 



そんな気持ちでいっぱい。



治療(副作用)の辛さを解ってくれない、受験生という肩書きも心追い詰めていた頃の私には、大人に投げかけられる言葉は全て『棘』か『毒』にしか思えませんでした。



とはいえ、『受験生』である事はどんな事があろうと変えられません。留年でもしない限り。留年がなければ高校浪人? 本気でそこまで考えていた頃。当時、校長経験のあった母方祖父が、病気や障害のある子を受け入れる特別クラスを設けている私立高校の校長に話をしてくれて、本来なら枠を取るのも不可能だったであろう『推薦枠』を高校で用意してくださいました。



わざわざ用意して頂いた推薦枠です。留年する訳にも、推薦枠を蹴る訳にもいきません。中学三年間、ほとんど実になる勉強はしていなかったのですが、不幸中の幸いは入院中に(何故か母が文庫本を買ってきていた)明治大正文学をほぼ読破していたこと。

推薦試験は(うわー全然覚えてない)確か、三科目だったかと。とても寒くて、膝掛けにカイロもたくさん持って試験に臨んだのは覚えています。



私立の推薦試験は、当時高校入試期間でいうと最も早く行われていたーーのではないかしら。←これまた記憶曖昧ですみません……

皆が受験に悩まされている中、同じく早々受験クリアしたクラスメイトと三人で、美術館であっていたエジプト展見に行った覚えが(我ながら受験生らしからぬ行動(笑))。



人生において、初めて、自分の人生計画を真剣に考えた年でした。




カツラデビューした中学時代、私は一部の友達にしか自分がカツラをかぶっている事を明かしていませんでした。けれども、いつ見ても全く変わらない髪型ですもの、大半の子は薄々気づいていたと思います。
ましてやそれが三年目ともなればなおさら……当時は、日傘と同じくウィッグもマダムアイテム。若い子が自然に着けられる髪型など、まだありませんでした。
なので、私はカツラをかぶらなくても大丈夫な頭になるまで、同じ形のカツラを二つ使い回していたのです。

クラスの子達はその事について、見て見ぬ振りをしてくれていましたし、口にする事もありませんでしたが、他のクラスの子達は事情を知らないだけに、後ろから髪を引っ張ってきたり頭をはたいたりーー容赦ない好奇心のイタズラを仕掛けてきては私を悩ませました……

自分が思うことを、相手に伝わるような言葉にできなかったあの頃。本当に生き苦しい思いをしました。

そんな中、そのイタズラの集中砲火を浴びる事態がついにーー三年最後のクラスマッチの時に起きました。
当時の事を思い返すと、色々単位の足りなかった私のために、担任が考えたのだろうと思います。

「体育の成績上げるからクラスマッチに参加しろ」

二学期も同じ理由で持久走大会に参加させられました。「体育3やるから参加しろ」と言われて何とか完走(いや、歩き通)したけれども成績表を見たら『2』。

もう騙されない!

散々渋ったものの、体育の先生もやってきて『約束するよ』というので……仕方なく、クラスマッチに参加しました。男子はサッカーで女子はバレーボールでした。

ところが、クラスマッチの対戦相手が初っ端から、いつもイタズラを仕掛けてくる子のチームだったのが運の尽き。
しかもその子はそこそこ運動神経の良い子で、何かと動きの鈍い私に球をよこすのです。そのうち相手チームの他の子まで私を狙いだしーーついにはスパイクまで食らう羽目になりました。

同チームの友達がフォローしてくれてはいたものの、ついにーー恐れていた事が起きました。


ボールが頭に直撃、その後どうしたか全く覚えていません。気づいた時は用具室にいて、泣いていました。カツラは友達が拾ってくれたようです。

試合どころではなく、成績は結局『2』。同じ『2』なら、クラスマッチなんか参加しなければ良かった……心に大きな傷ができただけでした。

髪をいじられるイタズラもエスカレートしかけましたが、私もいい加減、怒り爆発。その子に思い切りビンタ喰らわせてイタズラ終了。私かて、かつてはヤンチャな超健康優良児、売られた喧嘩はきっちり返させていただきました。

とはいえーーカツラが公衆の面前で取れてしまった事実は変わりません。

いっそ、全校生徒の前で

「私はカツラだぁっ!! 引っ張るなバカチンがぁ」

って言える度胸があったらなぁ←今なら言えるのに(笑)

当時人気アイドルの歌にありました『ガラスの十代』ーー当時の私の心は、もう砕け散っていました……
私は、人形が苦手です。何故と聞かれても、理由はよく分からないのですがーー



母の育児日記によると、生後三ヶ月になる時に赤い起き上がり小法師をもらったそうで、それは揺らすと『♪リロリロリーン♪』と楽しげな音して、私のお気に入りになったそうです。



ただし、後ろ向きの時だけ。


触れば揺れて動く起き上がり小法師ですから、いつも後ろ向きとは限りません。遊んでいるうちに起き上がり小法師が自分の方を向くと……



初めは母もよく分からなかったようで、自分でもあれこれ試した挙句、



「どうやらこの子は起き上がり小法師の顔が見えると泣くみたい。怖いのかしら」



という結論に達したそうです。

物心ついてからもーー社宅の女の子達の間ではリカちゃん人形が大人気でしたが、私はこれっぽっちも欲しいとは思いませんでしたし、モンチッチやダッコちゃん、キューピーもダメでした。父方祖母は女の子らしい可愛らしい物が大好きで、何かと私にそういったものを買ってくれそうな雰囲気を醸していたけれど、いつも「猫(ぬいぐるみ)がいい」と逃げました。



祖父母の家に飾ってあった能面も怖くて仕方なかったし、自分のために買ってもらったお雛様も全然嬉しくなかったし。他所で五段・七段飾りを見ると羨ましかったけど、だからといって家にあればあったで絶対近寄れないとも思っていたほど。



結婚した時、私がもらった物だからと一歳のお祝いで頂いた市松人形と三人官女付きお雛様セットを持たされましたが……とうとう一度も箱から出さないまま、引越す時に供養もせずに捨ててしまいました。



これが祟ったのか、後日、それはそれは恐ろしい人形の悪夢を見る羽目に……ああ、ごめんなさい市松人形様、お雛様……あの時見た夢は今だ忘れられません!



と、いう訳で。今もなお、人形に対する苦手意識は続いているのでしたーー
中学二年の秋ーー萩・広島ーー修学旅行は行かないというか、行けないと思っていたところ、学校から『保護者同伴なら』という条件で、父方祖母が付き添いで修学旅行に行くことになりました。
行けたことは嬉しかったのですが……その実、バス酔いするは、歩いて回る同級生について行けないは、楽しかったというよりむしろしんどかった記憶しか残っていないのがなんとも。

行程はほとんど覚えていないのですが、ちゃんと見学できたのは平和公園入口、宮島の鹿。秋芳洞ではバス酔いが酷く、私の代わりに祖母が見学、戻ってくる時に観光バスの人数分串団子を買ってきて配っていたのを覚えていますーーお祖母ちゃん、ツアーで来たんじゃないんだよ? 修学旅行だよぉ!!

宮島では、本殿を回る体力的自信がなかったので、お土産売り場で祖母が買い物するのと鹿の餌やりをぼんやり眺めていました。
しばらくすると、何故か私の周りに雄鹿が集まり始め、そのうち取り囲まれて動けなくなりました……ちょうどその時、集合の笛が。

※ 写真がないので、鹿に囲まれた人の画像から鹿をトレースさせて頂きました……
 多分、端から見たら、こんな感じだったと思われる図


祖母はまだお土産売り場にいてこちらに気づいていない様子。私は生徒を集める先生に呼ばれましたが、角に阻まれてにっちもさっちもいきません。

「おーい、サヤネコー! 早く集合場所に行きなさーい」
「そんなぁ! 先生、助けてくださーい」
「いや、それは無理! 自力で何とかしろー!」

自力で何とかしろ、なんて……あんまりだ。

見るに見かねたらしい鹿の管理人さん(?)が助け出してくださり、そこでようやく祖母も駆けつけ、二人遅れてクラスに合流ーーとても恥ずかしい思いをしました。

こんな目に遭ったせいか、鮮明に記憶に残っている修学旅行の思い出は、雄鹿に囲まれた事だけ。稀な体験であったのに、写真も残っていないのが残念でなりません。

ーーてか、もう修学旅行じゃなくて、散々な観光旅行の思い出だわ。(笑)
治療が通院になると、通学も復帰しないといけません。が。

ほぼ頭皮むき出しになっていた私は、とてもそのまま通学する気にはなれませんでした。

そこで、夏休みに母とデパートへ行き、その年のお年玉を全額投入してカツラを買いました。がーー買った後、デパ地下で人酔いして従業員の医務室に運ばれるは、日差しの強い道端で貧血起こして通りすがりの男性に助け起こされるはーー散々な目に遭いました(その実、散々な思いをしたのは母であったろうと思われます)。



日差しの強い日は学校に行くだけで体力使い果たし、保健室で昼まで寝込むか、空きコマの先生に一時間目から自宅まで送り届けられるかーー授業に参加するどころの話ではありません。



そんな私に、母が誕生日プレゼントと称して買ってくれたのが日傘でした。当時、日傘というものは老婦人のお洒落アイテムで、若い子が差して歩けるような柄はありませんでした。



とはいえ、背に腹は代えられません。マッシュルームカットをロングにしたようなカツラとマダム日傘で通学ーー友達はそんな私を見て、『さーやんお嬢』とからかいました。(笑)




今では、花粉症などを考慮して持ち込みを禁止している病院も多いのですが、私が入院していた時、母は差し入れの食べ物の他にも、よく花を持ってきてくれました。

その時、同室だった子のお母さんから、「花瓶に活ける花は良いけど、鉢植えは入院患者に根が生える(入院が長引く)から良くないんだよ」と教わり、母にも話して聞かせた覚えがあります。



母は、今も昔も、地植えや鉢植えで花を咲かせるのが趣味というか生き甲斐というかーー社宅の時は駐車場に花壇を造り、マンションに越してからはベランダが徐々にジャングル化していくほど鉢植えを並べた花好き。

私が入院した頃、同じ花好きの方からシャコバサボテンをもらって、苗を増やしたり花を咲かせるための試行錯誤中でした。(母がなかなか花を咲かせきれなかったのは知っていました)



秋から冬にかけて再入院したある日のこと。母は満開状態のシャコバサボテンを抱えて、嬉しそうに病室に入ってきました。



「見て見て、さや! こげん花がついたっちゃが!」



六人部屋にいた全員が母を見ました。母は、二人用土鍋サイズくらいの鉢植えを抱えて私のベッド際まで来て、誇らしげに朱赤満開のシャコバサボテンを花瓶の横に置いたのです。



「母さん……鉢植えは根が生えるけんダメって教わったやん」

「だって、こげん花芽ついたっちゃもん。キレイかろうが」

「そりゃ、キレイかばってん」



母は、花を咲かせられたのがよほど嬉しかったのでしょう。なんと、「明日持って帰るけん。一日くらいよかろ。キレイかけん」とシャコバサボテンを置いて帰ってしまいました。

同室のお母さんはさぞかし呆れられたと思います。母の姿が見えなくなってから、



「やっぱ枕元に鉢植えは良くなかけん、プレイルームに飾ってもらおうね」



と、わざわざ食堂まで運んでくださいました。(苦笑)







あれから、三十年ーー先日、実家マンションの玄関に、当時の子株だか孫株であろうシャコバサボテンが飾ってあったのを見て、思い出した出来事です。




そういえば子どもの頃は、仮面ライダーやウルトラマンの他、水戸黄門や暴れん坊将軍といった時代劇テレビも見ていました。
「ひかえおろう、このもんどころが目に入らぬか」
と言って大きな消しゴムを印籠に見立てて突き出したり、両子寺という大分のお寺で印籠形御守を見つけた時は、祖母におねだりして買ってもらったことも。(笑)

今でも時代劇は好きで、特に鬼平と仕事人がある時はテレビにかじりついています。

キューピーの保健ビデオ、見ましたか! 確かに、女子だけでなく男子にも見せておくべき内容ではあったと思いますが、いまだに『何故キューピー』と思います……中学に入ってからは、男女に分けられることなく保健のビデオを見た記憶があります。

拍手、ありがとうございます。できるだけ、毎日更新できるよう心がけていきますね!

中学一年の夏休みから冬休みにかけて、治療が放射線照射と点滴になると入院、投薬だけになると退院といったサイクルになりました。
それ以降は二週間に一度の通院で検査・点滴、自宅療養で投薬ーー

今でこそ、副作用の現れ方については個人差のある事が知られている『抗ガン剤』。当時は一様に効果と副作用が現れると考えられて……いたかどうかは分かりませんが、主治医はいちいち副作用の出なかった子の話をして、

「さやちゃんの気のせい」
「もっと頑張れるはず」

私の訴えはまるで聞いてくれませんでした。私はどの薬の副作用も酷く、特に病院で打たれるイチゴシロップ色の注射が効果テキメン(食事中の方すみません)、胃液も出し尽くしたくなるほどの吐き気に見舞われていました。
主治医の先生は、同じ薬で治療している同年代『バレー部レギュラーでバリバリ活躍している』男の子の話を、付き添いで来ている母にも聞かせるものですからーー母まで先生に感化されてしまい、

「いちいちきつがっとらんで、学校行きなさい」
「病は気からって言うやろ」

などと言い出す始末。

まるで私に怠け癖が付いているかのような物言いに傷つきました……けれども、私自身、全く怠け癖や甘えがなかった訳ではありません。
私が原因で弟妹を振り回していた事、母には目に余る思いだったかもしれません。けれども私は口下手で、いつも肝心なところで自分の気持ちを的確に表せず、次第に、母も自分も大嫌いになっていきました。

解ってもらえないと思えば思うほど、なおさら解ってもらえない言動を繰り返して、悪循環に陥ったあの頃……今までで最も、最低最悪の『私』でした。

私が住んでいた社宅は、こう言っちゃなんですがおんぼろアパートで、ベランダにはとても重いスチールサッシ、室内の扉は建て付けが悪くガタガタか閉まらないか、閉めたが最後、小さい子どもの力では開かないかーーでした。
一人でベランダに出られるようになったのは小学校に上がってからでしたし、トイレの扉は鍵を掛けると開かなくなることがあったので、なるべく鍵を掛けずに入っていました(のでノック必須でした)。

特に、トイレはベランダと並ぶ閉じ込められエリアで、悪さしては母に折檻としてトイレに籠められたりベランダに追い出されたりーー現代だと虐待で通報されそうな『お仕置き』が日常茶飯事でした。(笑)



トイレの扉も、自分の力で何とか開けられるようになってからは、特にトイレに対する負のイメージは遠ざかっていたのですが、その負の記憶を呼び覚ます事件が、22歳の春ーー独り暮らしをする事になったアパートで起きたのです。

それは、母と二人で新生活を送る部屋を掃除していた時の事。

トイレに入って、用足して、いざ出ようと取手に手をかけーー押して出る扉が開かない? 取手を思い切りひねって体当たりするも、びくともしません。

「お母さん! 開けてー!! お母さーん!!」

十数年ぶりですよ、この状況。「何ね、子どもじゃあるまいし」と近づいてくる声と、向こうからも取手を握る気配。

「あらっ? あんた鍵掛けっぱなしやないと??」
「なんが、鍵外しとぉが! そっちから引っ張っちゃり!!」

数分後(実際はもっと短かったかもしれませんがとても長く感じましたね)。

ズバーン!! と勢いよく扉が開いて、母は尻もちをつき、私は前のめりに倒れましたーー

「ウハァ……独りやったら、シャレならんかったー」
「ホント、二人でおってよかったねー……あんた、もうトイレ入ったら閉めなさんなよ」

母に言われるまでもありません。


以来、家に独りでいる時は、トイレの扉は閉めません!←正月から何のカミングアウトや

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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