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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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私よりも長く入院している子ども達の間には、暗黙知の空間がありましたーーそれは、無菌室。


当時、小児科病棟に二つしかなかったその部屋は、誰もが最も入りたくない部屋でした。

と、いうのも。

その部屋に入る事になった子は、早いと一週間くらい、長くても十日前後で……ひっそりといなくなるのです。
看護師さんや先生に聞いても「退院した」とか「病院変わった」とか、嘘を吐いているのがありありと窺えるような答えが返ってくるだけで、当然何も教えてくれません。

本当の事を教えてもらえなくても、空気は確実に伝わってくるものです。当の私も、入院して一ヶ月もすると、その子ども達の暗黙が解るようになってきました。

誰も言わない。言わないけれど解るーー雰囲気。

その部屋は二つしかなかったので、中にいる子が居なくならないと空きません。そして、重症の子から順に入れられていきます。部屋が空いたら、次はだいたい、少数部屋にいる誰かが入る事になっていました。
六人・四人・三人部屋、入院当初三人部屋に居た私は、次にあの部屋に行くのは同室の誰かだろうと思っていました。

無菌室から一人の女の子がいなくなった日。主治医の先生が言いました。

「さやちゃん、今日から無菌室入ろうね」

えっなんで、私? って思いましたよ。私より重病そうな子は他にもいるのに……有無を言わさず、その日から私は『無菌室の子』になりました。

六人部屋に居た子らの目は、何とも言えないものでしたーー「そうか、さやちゃんあの部屋行くんだ」「あの部屋行くの、そう」ーー誰もそれ以上は言いませんが、私はもう普通の病室には戻ってこないだろうという空気が漂っていました。

それでも、私は入院前検査で部長先生から、

「この子の心臓は稀に見る丈夫さだね。これなら、どんな治療にも耐えられる」

とお墨付きを頂いた身体です。……って、おい! 大人になって気づいた事ですが、それはつまり、そういう事だったのネーーーーッッ!! ←気づくの遅すぎ。

大人になって気づいた事はさておき、当時の私はそれでも、自分の病気に対してタカをくくっていました。あんな夢を見ておきながらも、自分はそう簡単には死なんとかたく信じていたのです。

かくして、約二週間の無菌室生活が始まりました。
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これまで、病院にお世話になるといえば、風邪とか突き指とか捻挫とか爪が剥げるとかーー主に『外科』がメイン、しかも風邪以外の状態なら自分で自転車こいで病院に通っていた私。

入院生活というのは7歳、逆睫毛の手術で入院して以来(ほとんど記憶に残ってないの……)、ほとんど何もかもが初体験(みたいなもの)でした。

その最たるものがまず点滴。その病院の小児科病棟では、長期点滴という事になると皆こうなりました。


針が動いたり抜けたりしないよう検尿カップを加工した針カバーをテープで固定され、同じ理由で手首から腕にかけてシイネという金属板にホータイ巻きつけた添え木でガッチリ固定。どんなに寝相が悪い子どもでもこれなら安心……看護師さんは、ね。

子どもにとっては不自由極まりない代物で、利き手につけられるともうーー食事も字を書くのもトイレだって事欠く始末。まして動き回るためには点滴瓶(当時の点滴はパックよりガラス瓶が多かったような)を下げた車付きの竿を持って行かないといけないので、行動も妨げられます。


そして、どういう訳かこめかみを剃られ、何をされるかと思いきや……


照射位置がずれないようにつけるのだと太書きペンで十字を書かれました。
可愛くもなければカッコよくもない。同じ印を入れられていた男の子は、「どうせなら☆にして欲しかった」と言っていました。とっても同感したのを覚えています。

これが過酷な治療のスタートであるとは、これっぽっちも思っていなかった私ーー思春期ならではの心の不協和音も忍び寄る中、症状は次第に悪化していきます←このうちの半分は、治療によるダメージだったかもしれませんが。
入院したばかりの頃、入れ替わり立ち替わり小学時代のクラスメイトがお見舞いに来てくれました。

来てくれた友人は、私があまりにもヤンチャであったのを知っているので、病室に入るなり第一声が「骨折で入院したっちゃろ?」でした。当時、『病名は悪性貧血』と聞かされていた私は、毎回「悪性貧血だって」と答えては「まったまた、嘘やろー」というやりとりを嫌になる程繰り返しました。




今となっては笑い話の一つですが、当時、友人だけでなく私自身も「なんで悪性貧血?」と思っていて、何とも言えない歯痒さに囚われていたのを覚えています。

病棟内には、何故か薄ら禿げになった子やパンパンに浮腫んだ顔の子、まるで餓鬼のようにやせ衰えた子もいて、ただならぬ空気に包まれていました……私一人が浮いている感じ。
プレイルームという食堂も兼ねたスペースには本棚もあり、その本棚には児童文学や絵本の他に親が読むような本もたくさん並んで、その中には自分の本当の病名を示すモノもありました。

無意識の中で、自分がどういう状況にいるのか解っていたと思いますーーそれは、『死』が目と鼻の先にあるということ。

勉強などとてもする気になれず、親に渡される文庫本を読んでしまうと病棟の本棚にあった本を片っ端から読みあさりました。絵本・児童文学・親が読む本……入院生活が一ヶ月過ぎた頃には、病棟の本棚も読破ーーそれでも私は、自分は『悪性貧血なんだ』と信じました。


解っているのに『私は違う』と思い込みたい心理ってありますよね、大人にも。
入院した日、こんな夢を見ました。

真っ暗闇の坂道をダラダラと登っていく夢ーー次第に息は上がってくるし、足取りは重いし、でも坂道は登っていくもの、そう思い込んで登っていくのです。
そのうち光の点が見え、それはだんだん大きくなってきて、暗闇にいた私はその眩しさに手で目の上に庇を作って進んでいきました。

ようやく、その光がU字をひっくり返したような形だと判ってきた頃、坂の下の方から母の怒鳴る声が聞こえました。

「あんたどこ行きよぉとね、はよこっち来なさい!」

もう少し頑張れば出口という所で、母は何を言っているのだろう……私はムッとして言い返します。

「何言いよぉとね母さん、あっこに出口見えよぉやん!」

けれども母は私の言葉を無視して、怒った声で怒鳴り続けるのです……うるさいなぁもう……と、私は母を無視して歩きだそうとしますが、疲れすぎたのか足が思うように動きません。
母の怒鳴り声を聞きながらも足を引きずり、トンネルの出口はすぐそこ! というところでーー目が覚めました。

薄暗い部屋にいて、横を見ると、母が何故か逆さに文庫本を持っていました(カバーが逆さだったのかも)。

日付を聞いたら、主治医になる先生に「入院しようね」と言われた日から丸一日過ぎていて、そんなに寝ていたんだと思ったのと、あのトンネル抜けていたらどうなっていたんだろうと思いました。

臨死体験をした人達が言う『お花畑』を見られたかもしれません。当時の私はそんな事もよく分かりませんでしたが。


腰痛持ちの小学生は中学に入学した頃から、打った覚えのない所に青あざができるようになりました。ベッドから落ちるほどではないけど寝相の悪かった私は、寝ている間に壁に当たったのだろうという事にしていました。

入学早々ブラスバンド部に入部、入学祝いを兼ねたトランペットを買ってもらって、レッツ中学生活!

ところが、四月の半ば過ぎから37度ちょいの熱が続くという風邪のような症状に見舞われるようになりました……

それでも元は超健康優良児ですから、「少しの風邪くらい大したことない」と通学強行するも、五月の連休明けには吐き気も酷くなり、道端で粗相しないように紙袋にスーパー袋を重ねた物を常備してまで、無理やっこ通学。

中間考査も近づいてきて、「このままではまともに試験が受けられない」とようやく近くの診療所に通院しましたーー体温を測り、血液検査した後、胃カメラも飲まされました。飲まされる準備のところまでは覚えているのですが、当時の胃カメラが超太かったのはしっかり記憶に残っています。

六年生になった年の9月、ついに憧れだった子供部屋を手に入れました。六畳二間の社宅から、4LDKマンションへ!
父の稼ぎが絶頂期……だったと思われます。五人家族になっていた莢猫一家は、念願(かどうかは聞いていません)のマイホームへ引越しました。

が、もう六年生の二学期に突入していたため、学校側の計らいで、卒業するまで引っ越す前の小学校へバス通学することになりました。

慣れないバス通学ではありましたが、何だか大人になれたような気分ではありましたーーけれども、別の意味でも、大人な気分を味わうことに……腰痛に悩まされ始めたのです。

今思えば、それが病の最初のきっかけ『予兆』だったのかもしれません。当時、祖父が医者をしていて湿布薬などたくさん送ってもらいましたが、気休めにしかなりませんでした。

謎の腰痛は整形外科で診てもらっても原因も判らず、私は小学生の身分で腰痛持ちになりました……
本音を言うと、学校は大嫌いな所でした。入学式から「行きたくない」と駄々をこね、四年生になって妹が産まれるまでは保健室にしょっちゅうお世話になっていた子どもでした。
(という事実は、卒業する時に保険の先生に言われて初めて『そうだったっけ?』と思うほど記憶から抹消されていました(苦笑))

担任との相性も悪く、当時二年担任が変わらない(クラスも変わらない)制度は私にとって苦痛でしかありませんでした。

一年で散々担任を振り回した私は、二年の家庭訪問で担任に、
「お宅のお子さんは何を考えているのか分かりません。どうしたものでしょう」
などと言われる始末。すると母まで、
「私も分かりません」
ですって。当の私は、母が先生に出したケーキを虎視眈々と狙っていました←我ながらそこかよって思う状態ながら、今でもハッキリと覚えている光景です。
学校嫌いのピークは四年生ーー担任からも目の敵にされていた私は、いじめの対象になっても何のフォローもしてもらえず、クラスの雰囲気も険悪でした。


親でさえ理解してくれないのですから、自分なりに解決するしかありません。

地図帳と白地図ノートを使っての授業が始まったばかりの頃、私はクラスの誰かによって地図帳を隠され、白地図ノートも上靴と一緒に泥が溜まった側溝に捨てられました。
上靴は洗えば問題なく履けたのですが、白地図ノートは泥だらけでとても使える状態でなく、地図帳に至ってはとうとう出てこず終い。
担任に訴えても新しい白地図ノートも地図帳も用意してもらえず貸してももらえずーー当時、叔父が中学社会科の先生をしていたため、地図帳だけは何とか手に入れました……中学生が使う物でしたが、出版社が同じで小学生が使う範疇も入っていて、ページ数は違ったものの授業で使うのには困りませんでした。


更に。中学生が使う地図帳を持っている事で優越感に浸れるのと、白地図ノートの宿題をせずに済むようになった私にとっては、これ以上ない不幸中の超ラッキー。(笑)

私の地図を捨てたヤツも対応無視した担任も、こんな私に辟易したことでしょうね……以来、このクラスであれこれ物を隠されたり盗られたりするのは無くなりました。


三年生になった頃。ボリショイサーカスに連れて行ってもらった時、とても楽しみにしていた空中ブランコーー演技者が入院したとかで演目なくてがっかりしていたところに、木下大サーカスが近くの公園に来ることになり、改めて観に行くことになりました、が。

またもや、空中ブランコの演目はありませんでした。

これはもう、自分でやるしかありません。近所の団地の間にあった小さな公園へ行き、私は立ち漕ぎして空中ブランコの演技者になりました。※あくまで妄想です

その日はよく晴れていて、団地の窓には洗濯物が翻り、3階ではおばちゃんが布団を叩いていました。私は勢いよく立ち漕ぎし続け、ブランコが回転しそうになるくらい漕ぎましたーーそして。

何がどうなったのか、さっぱり解らないうちにズバババーッと音がして、


 
のです……

空中ブランコ妄想暴走した私は、布団叩いていたおばちゃんを受け止めてくれる人に見立てて、ブランコの鎖から手を離しちゃいました。
その後、つつじの植え込みから抜け出すと、布団叩きを握りしめたおばちゃんが駆けつけてくれて、
「あんた大丈夫ね!? 怪我しとらんね??」
「大丈夫、ネットあったけん!」

ーー本当に、軽い擦り傷ほどで済んだのですが。私がつつじの植え込みに開けた穴は、団地がなくなるまで開いていました……我ながら、命知らずにも程があるわー。
声が大きく、歌うの踊るの大好きな幼少時代から、超がつくほどの健康優良児な小学時代ーー当然の事ながら中学に入って死にかける事態に陥るなど、想像する事も出来なかったあの頃。

むしろ、自分はそう簡単に死なない(←今となってはある意味当たってる)と過信していた感が……

私が小学2年くらいの頃、社宅に住む子ども達の間で『ライダージャンプ』と称してアパートの通路にある手すりを乗り越えて砂場へ飛び降りるのが流行ったことがありました。もちろん、大人に見つかると叱られるので、親の目がない時にこっそりやるのです。



初めは皆、1階の手すりの上から飛んだりしていたのですが次第にエスカレート。2階から飛ぶ猛者も現れました。その子に何と言われたかまでは覚えてないけれど、私の負けん気に火が点いたのは間違いありません。

夏休み終わりの、親の目が消えた日。私は意を決して3階の手すりを乗り越えました。

「ライダージャーンプ!!」

ーー2学期は両足首捻挫で松葉杖デビュー……その時思った事は今でも覚えています。

『ここのアパート、4階(最上階)から飛び降りても死なんね』

2〜3歳頃の私の暮らしは、生活費2万いくかいかないか……こんなんでよく親子4人暮らせたなぁ……という生活でした。
外食というものは、父の給料が高度成長期の波に乗るまでありえない事だったのです。

なので、外食ならたとえ『うどん屋』でも『ラーメン屋』でも、ご馳走と思えたのでしょうね、多分。というのも、この一件に関しては全く覚えていないのです。

ただ、家族でうどん屋に行く度に聞かされていた逸話だもんで、こんなだったんだろうなぁと想像してみました。

もともと声は人一倍大きいので、当時の私の声は店内中に響き渡ったと推測されます。

今では、混雑しているファミレスでもすぐ店員さんに来てもらえて便利(と前向きに捉えています)が、当時、私をうどん屋に連れて行った両親は顔から火が出るほど恥ずかしかったそうで。←もちろん他人事(笑)

今思えば、天然とかKYとか言われる素質が既に発揮されていたのねーと思います。

つくづく、こんな私を育児放棄もせずに育ててくれた親に感謝です……合掌。




プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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