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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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昨年はいろんな事がありましたーー


春、数え年で卒寿を迎えた母方祖母が星になりました。

夏、末期ガンを宣告されていた闘病仲間が星になりました。

秋、従妹が結婚することになったのを報告してくれました。

冬、『猫空世界』生い立ちブログ始めました。


詳細まで記すととんでもない量になってしまうので、自分の中で特に大きな出来事を季節ごとに挙げてみました。
今まで、一年はあっという間に過ぎていましたが……昨年は『三年分はあったかしら』と思えるくらい、長かったです。

今年は、五年分くらいを目安に生きていこうと思います。(笑)

ここが皆さんにとって、何かしら人生の足しにーー少しでもなれば幸いです。
より多くの幸せが、皆さんに降り注ぎますように。

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小学五年生の二学期初め頃、だったと思います。クラスの中には既にそれに煩わされている子もいましたがーーある日、2クラスごとに保健室に集められて、キューピー演じる保健のビデオを見せられました。

内容はズバリ、『生理について』でした。

何故キューピー? 私は生まれたすぐからの人形嫌い(ぬいぐるみはOK)だったので、ただひたすら嫌な気分だったのを覚えています。
初潮を迎えたばかりの頃は無自覚な事も多いから、スカートなどに経血が付いていたら教えてあげましょう的内容をキューピーが熱演。



そして。

どんな根拠でそう思い込んでいたのかは忘れてしまいましたが、自分にはそんなモノ来ないと思っていた私にも、その日がやってきましたーー当時の成人式。祝日で家にいたのが幸いでした。
1.5センチはあろうかという分厚いナプキンを母にもらい、まるでオシメを当てているような気分で過ごした記憶が……今ほど薄い生理用品なんてなかったのよ。

母はその日、大好きなお赤飯を炊いてくれましたが、正直、こんなことが何故めでたいのか理解できませんでした。何だかイライラするし、股間はもっさりしていて動きにくいし、月ごとにお腹の痛みは増してくるし。

母は生理痛に悩まされたことがない人だったので、痛みを解ってもらえないのが辛かった。最初は「生理で学校休む子やらおらん」と叱られていました。

今でこそ、『月経前症候群(PMS)』『月経困難症』など、生理に伴う症状は『病気』として認められていますが、昔は『生理ってきつい』という思い込みからくる仮病みたいなものと捉えられていたんじゃないかなぁ……

この生理痛が、大人になって様々なトラブルを引き起こす元凶になっていきますーー
佐々木倫子作『動物のお医者さん』(読んだことなかったらゴメンなさい)に髪の毛を毟り食う馬の話がありましたが、まさにあんな感じだったーーと思います。
馬の噛む力って、馬ブログ書いている人の話によると『G-SHOCKが壊れる』ほどあるとか……あなおそろしや……子どもの髪は細くて柔らかいから、食いちぎるのは楽勝だったかもしれません。

小学生の時分、私にはどうしても好きになれない男の子が二人いて、主にその二人にちょっかいかけていましたーー私よりも太っていた子と、クラス1小さい子。
クラス1小さい子は私の弟をいじめているのを見かけてから、いじめ返す事に決めた子でしたーーでも、今じっくりと思い返してみると、私に対して気にくわない事があると弟に当たっていたような気がします。←諸悪の根源はやっぱり私かな(苦笑)

学校では弟思いを演じていましたが、家では毎日喧嘩三昧。弟とは、学年では二つ離れていましたが、実際は一歳七ヶ月で年が離れているような感じはあまりしません。
口下手で瞬間湯沸かし器な私と、小さい頃から三枚舌と言われるくらい口達者な弟……喧嘩をすれば勝ち目ないのが解っているくせに、しょっちゅう私にちょっかいかけてきては大乱闘になりました。

よほど、私のカアッと怒る様がおかしかったのでしょうね……(苦笑)

拍手、ありがとうございます。これからも日々更新していきます。
思い出しエピソードは、挿絵が描け次第、随時追加していきますね。

私には、二歳下に弟、十歳離れて妹もいた上、母がベッタリするのを嫌う人だったのもあってか、自分が甘えたい思いは他に向けていたような気がします。
根が『甘えん坊』なのは、コンプレックスでもあったと思います。自分の満たされない気持ちは全部、ぬいぐるみにぶつけていたような……記憶は曖昧なのですが、高校生になるまでぬいぐるみをベッドに置いていたのは事実です。

子どもの頃、どこへ行くにも持ち歩いていたのが猫のぬいぐるみでした。小学校に上がっても、遠出する時(祖父母宅に行く時など)は必ず持って行きました。
12歳の誕生日にはリアルサイズのラッコのぬいぐるみを買ってもらい、それが添い寝のお供になりました。



入院中も、そのラッコを抱いて寝ていたのですが、ある日、そのことを保母先生に「甘えん坊」と指摘されて、恥ずかしいやら腹立たしいやら……
その実、入院してから母に甘えた事ばかり言っていた私。先生はやんわり釘を刺してくれたつもりだったのでしょうーー今ならそう思えますがーー当時の私はショック過ぎて、しばらく保母先生のことを無視していました。

その時、やり場のない思いをぶつけた詩がこちら……原文は利き手でない手で書いているので前記事の『ししゃも字』で書いてあると思ってください。

ラッコをだいてねるのは
わたしが甘えんぼうだから
じゃない
わたしは小学校にあがって
朝おきたら弟みたいに
母さんのふとんに入ったことは
一度もない
わたしはあまり
甘えたことはない
きょうだいとくらべても
わたしは甘えきれなかった
だからぬいぐるみなどを
だいてねる
それでよっきゅうふまんを
かいしょうする

今手元にあるぬいぐるみ
ラッコがゆいいつのよっきゅうふまん
をかいしょうしてくれる人だ
さびしいとおもったら
いつもお母さんにいてほしかった
けれどもいままでは
半分くらいきょうだいたちが
みてたから姉ちゃんとして
はずかしいから
ぬいぐるみを
だいてねた
今入院してて
さびしいなと思っても
お母さんがこれる日が
きまっているから
さびしい夜は

ラッコをだいてねる
甘えたいから
ラッコをだいてねる
甘えた数は
多いかもしれんけど
父さんや母さんには
こんなこといったこと
ないけど
いったら
姉ちゃんだから
はずかしいよ
だから
甘えんぼうじゃ
ないように
がんばってきた

だから
甘えんぼうじゃない
さびしいから
本当は甘えんぼに
なりたかったな



わたしは
ある人から
「さやちゃんはラッコなんか
 だいてねるなんて
 甘えんぼね」
といわれ
とてもくやしかった
お母さんと
ラッコはとても
いい人だ
いつもなぐさめてくれる


ーー12歳なりに、自分の矛盾と戦っていたのね……てか、ラッコのぬいぐるみが『人』になっているあたり、それだけ依存していたんだなぁと思います。

それにしても、私が入院中に書き散らした様々な言葉、イラスト、クラスメイトから貰った手紙など、全てを残してくれていたのは母でした。

母さんありがとう。でも、この歳で12歳の自分と向き合うのはさすがにこっぱずかしいわ……


※挿絵は当時の私が利き手でない手で描いたものです
無菌室を出てから、本格的な治療が始まりました……多分。無菌室に入る前から始まっていたとは思うのですが、治療を実感し始めたのは無菌室を出てからでした。

まず、口の中が荒れて固形の食べ物が喉を通らなくなり、二週間ほど流動食になりました。喉にスプレータイプの麻酔薬を吹き付けて、無理やり流動食を飲みました。その劇薬がとてもえぐかったこと、そのせいで流動食の味がほとんど分からなかったこと、ただ、重湯は激マズだったのは覚えています。(笑)

その後薬を変えられたらしく、今度は強烈な吐き気に襲われるようになり、自分がその日その時その瞬間に食べたいと思った物しか食べられなくなりました。このせいで随分母を振り回し、度々親子喧嘩の元になりました……
当時書いたモノがこちら ↓ 利き手でない手で書いているのでヨレヨレです……


そして、放射線照射の影響もーー最初に気づいたのは、枕についている抜け毛の量でした。抜け毛がシートになっていて、端をつまみ上げると全部がペロンと捲れ上がるほど。ブラシで解こうものなら、ブラシの先が真っ黒になるほど抜けるのです。

もともと、おさげにすると片方が大人2食分のパスタ分くらい、どんだけ髪多いのってくらい生えていたのが、日に日にスカスカになっていきました。
病棟の女の子達の中には、西洋(赤毛のアン)風のナイトキャップをかぶっているオシャレな子もいて、母が同じような物を作ってくれました。が。

その子には似合っているのに、自分にはちっとも似合っているように見えないのねー……(苦笑)
せっかく母が作ってくれたナイトキャップも、季節が初夏から夏に移り変わる時期で頭が蒸れるのもあって、ほとんどかぶらなかった……ありがとごめんね、母さん。
いやはや、トラウマってなかなか克服できないものですね。
あの日、バタバタ無菌室に入れられたので、詳しい説明はほとんどありませんでした。せめて、容器に『イソジン』のラベルを貼っておいて欲しかった……
今思い返すと、二つしかない無菌室、中で亡くなった子の対処と無菌室待ちの子の対処で、看護師さんは気持ちにも行動にも余裕なかったのかもしれません。
入院当初、私には新人看護師さんが担当で付いていましたが、無菌室にいる間にベテラン看護師さんに替わっていました。←大人の事情? 今となっては、想像の域を出ません。

人生において、最も『変』に激ヤセしたのが無菌室を出た後でした。(笑)
入院当時53キロあった私は、無菌室を出た後の身体測定で48キロになっていました。これ、みな筋肉が落ちた分だなーと思います。
そして、あのスッテンコロリン後ーーお腹から腰にかけて大きな青タンができ(消えるのに一ヶ月くらいかかりました)、点滴針を刺していた所が腫れて血管潰れてしまい、利き手に針を差し替えられてーーたいそう不自由な生活になりました。
「茶碗一個くらいプレイルームに置いても邪魔にならんから。無理しなさんな」
と看護助手さんに慰めの言葉を頂いたのを覚えています。(苦笑)

当時、その大学病院の小児科病棟には、看護師さんの雑用をお手伝いする看護助手さんと保育士の資格を持つ保母先生が二人ずついて、子ども達が粗相をやらかしたりの後始末や食事配膳から、子ども達の話し相手や遊び相手といったメンタルケア役にもなってくれていました。
看護師さん達も皆子ども好きそうな人達ばかりで、親に言えない愚痴や悪態も……聞いてもらっていましたねーー闘病生活を支えてくださった方々には、本当に感謝の一言に尽きます。

拍手、ありがとうございます。これからもいろんなエピソードを挿絵付きで公開していきます。
楽しんでいただけたら幸いです。
これは、高校時代に母に聞いて衝撃を受けた話……

私は幼い頃は歌と踊りが大好きな子どもでした。

特にピンクレディが大好きで、当時振り付けつきで最初から最後まで歌えるほどでした。あまりに好きなので、自身もカラオケ好きだった祖父が、私専用のマイク付き簡易カラオケセットを買ってくれたほど。

(カセットに4曲入っていて、カラオケ本体にカセットを差し込んだらチャンネルを回して歌いたい曲の番号をセット、スタートボタンを押すとメロディが流れる代物で、ちゃんとマイクを繋ぐ穴もスピーカーも内臓)

さて、本題に入りましょう。

その頃、大ブレイクした歌で、祖父が車に乗せてくれるとラジオからも流れてくるほどの人気の歌がありました。
けれども、私は、ピンクレディは今でも歌詞を見なくても歌えるのですが、その歌は何故か曲しか覚えていなかったのです。

ただ、男の人が歌っていたのと、『ん〜ん、ん〜ん』と唸る声が入っていたのは覚えていました。

以下は、自分が漠然と覚えている事と母や祖母から聞いた話を合わせて想像(妄想)したものです。


私が5歳の時に大ブレイクしたその歌は、正直、5歳児が大音声で歌うのはどうかと思われる歌詞でした……
当然、そんな内容を解る訳もない、ただ歌として歌っていた私は、祖父母の家に行くとお祖父ちゃんの車の前に付いていた棒(コーナーポールというそうです)をマイクに見立てて歌っていました。(これは覚えてる)
お祖父ちゃんが車で出かける時は、ラジオから流れてくる歌を一緒に歌い、家に帰ればコタツをステージに見立てて、そこで何かしらの振り付けつけて歌い踊っていたのです。(これも何となく覚えてる)

ところが、そこに酔いちくれた父が現れ、

「そんな下品な歌唄うなっ!!」

と私をコタツからなぎ倒したらしい。(これは祖母に聞いた)

ーーそして、私の記憶には、その歌の曲と『ん〜ん、ん〜ん』と唸る声だけが残りました。
ずっと気になっていたけど何故かなかなか聞き出せず、高校生になってから、母に

「ねぇ母さん、私何でか曲だけ覚えとぉ歌があるっちゃけど、これ、何て歌?」

タリラリラララリラーリ……曲を全部ハミングし終わる前に、アイロンをかけていた母は顔をしかめて振り返り、ボソッと一言。

「黒沢年男の『時には娼婦のように』たい」

『黒沢年男』は分かりませんでした、が、その曲のタイトルには衝撃を受けました。
その冬休みに祖父や祖母にその話をしたら、祖母から上記の話を聞いたのです。

ああ、だから、記憶から抹消したのね……黒沢年男。

ーー現在。カラオケに行くことがあると、たまに歌います。(笑)

約二週間、勉強はまるで手につきませんでしたが、母が人から譲ってもらったという簡易的な自動演奏付きキーボードやトランプ、挿絵の多い本を差し入れてくれたり(滅菌消毒ができるものはOKでした)、広告の裏紙に落書きなどして、それなりに面白おかしく暮らせた……んじゃないかな、多分。

けれども、無菌室での可動範囲がベッドの上以外はポータブルトイレまで。歩行距離もほとんどありません。一応ラジオ体操など動ける範囲でやってはいたものの、筋肉の衰えは凄まじいものでした。

それを身をもって体験したのが、無菌室を出た初日。

基本、ベッドからトイレまで自分一人で行ってもいい子どもは、食事の食器を自分で配給ワゴンまで乗せに行きます。配給ワゴンは昼は長めに置いてあるのですが、夕方は早々に看護助手さんが押して行ってしまいます。
乗せそびれた食器は、プレイルームに置いていたようなーー記憶曖昧なので割愛ーーこほん。とにかく、夕食後は急いで膳トレーを置きに行かないとなのです。

私は当時は割と早食いでしたので、特に問題なくトレーは乗せられました。が、茶碗を一つトレーから外していたのを忘れていて、後からそれを持って行こうとしたら、もう看護助手さんがワゴンを押していくところでした。

慌てて茶碗を握りしめ、点滴下げる竿押して小走りしようとした途端……


腰が抜けたような脱力感に襲われて転倒。点滴の竿ごと倒れてえらいこっちゃ……不幸中の幸いは、点滴の瓶が割れなかったこと。

こんなにも自分弱っていたのかと痛感した出来事でした。
さて、無菌室生活初日は、身の回りの確認でした。空気清浄機から常に掃除機のような音が聞こえる(うるさいから止めてと言ったら怒られた)中、可動式机の上には滅菌蒸留水というラベルが付いた瓶と、紅茶色した液体が入ったガラスポットが並んでいました。
蓋を開けて匂いを嗅いでみました……この時既に嗅覚おかしくなっていたのかもしれませんが、私にはそれがハーブティを思わせる匂いだったのです。
滅菌蒸留水の方は飲み水と聞いていたのですが、茶色い液体については何の説明もなかったので、入れ物の形から勝手に『紅茶かな』と判断。喉も渇いてきたので飲んでみることにしました。



何と、この液体はーーイソジン!! 思いっきり飲んでもーた……てか、看護師さーん!先に教えといてよぉーーっ!←自分で聞けよってか、自業自得。

以来、私はイソジンのウガイ薬が大嫌いになりました。大人になった今でも、ウガイ薬はアズノールを使っています……ぐふっ。
まずはコメントのお返しから……日付順に。

残念ながら、未だに馬のトラウマは克服できません……馬好きの親友に誘われて乗馬に出かけてみたこともあるのですが、「うま」くコミュニケーションが取れず更に苦手になってしまいました。(苦笑)
馬を好きになるのは、馬好きな方にお任せします……申し訳ない。

今でも、声の大きいのは良し悪しです。図書館や美術館など、会話するなら声を潜めないといけないような所でもーー例えば、本を読んでいて感心するような記述を見つけると「なるほど!」とか、絵やオブジェを見て感動すると「これ素敵!」とかーー周りの人が振り返るくらいの声が出ちゃっているのです……慌てて口を押さえても時既に遅し。
それでも懲りずに、美術館や博物館へ誘ってくれる鑑賞好き親友には、とても感謝しています。

健康優良児編記事への拍手、ありがとうございます。

今後のメインは闘病生活になりますが、子どもの頃の逸話は他にも色々ありますので、挿絵がうまく描け次第(←ここ一番大事)、追加していきますね。

コメント頂いていたのに気づいたのが23日、どうやってコメントにお返事したものか、試行錯誤しすぎて遅くなってしまって申し訳ありません。

まだまだ、このブログ管理も追っつかない莢猫ですが、これからも遊びに来て頂けると幸いです。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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