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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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石の上にも三年の会社勤めも三年目の秋。私は次の仕事を少しずつ模索し始めました。仕事が休みの日に、あっちをふらふらこっちをふらふら……そんな中、9歳年上の男性と知り合いました。
奥さんと別れたばかりのバツイチで、あまりいい噂は聞かなかったのですがーー最初の彼に歳が近く、『都合よく甘えられるかもしれない』と考えた私は、その人と付き合うことにしたのです。

その頃はちょうど固定電話からケータイ電話への過渡期でもあり、私も当時一番電波範囲の広かった会社のケータイを手に入れたのですが……当時は格安プランなどなく使えば使うほど電話代のかかる代物で、固定電話を解約してもケータイ代が家計を圧迫すること多々ありました。

10万超の電話料金支払いが度重なり、出かける時は冷蔵庫以外のブレーカーは全部落とし、ガス栓も開けるのは週一回、その時に一週間分の料理をして冷蔵庫へ。風呂は冬でも水浴びして暮らし、何とか家賃を捻出。
車維持も最低限で、洗車はタダで水が使える所で手洗い、ガソリンは一番安い店で給油、どんなに生理痛が酷くても、病院に行く余裕などなく寝てやり過ごしーー見かねたらしい彼が、

「通勤はちょっと大変になるけど、うちで暮らさない? 家賃や共益費は気にしなくていいから」

と申し出てくれて、やりくり困窮していた私はアッサリ乗ってしまいました。良くない噂は心の隅に引っかかっていたものの、金銭面扶助の誘惑には勝てず、同棲することを決意しました。

その後、彼の斡旋で次の仕事をつないだ私は、石の上にも三年会社を辞めて新たな職場へーー正規雇用ではないので、2ヶ月働いて2ヶ月休む事で更新可能という特殊な雇用形態に身を投じることになりました。
休みの2ヶ月は似たような繋がりの職場へ自分を売り込む電話をかけ、1ヶ月〜2ヶ月綱渡りで仕事をこなす日々。給料は独り暮らしの頃より減りましたが、家賃や食費を気にしなくていい分貯金できるようになりましたーーが。

彼と一緒に暮らしてひと月もすると、今までに聞いていた『良くない噂』が現実味を帯びてきたのです。

私の大嫌いな父と似ている……というか、言動がいちいち被るのです。私の父ほど汚い言葉ではないけれど、言葉や肉体的な暴力が月追うごとに酷くなっていきました。

二言目には『誰が稼いできよぉと思っとぉとや』『ガタガタぬかすと打ちくらすぞ』とがなり立て、本当に殴ったり物を投げつけたりするような父の一番嫌な面が、彼にもハッキリ見えた時、私は……どこかで分かっていたはず覚悟もしていたはずなのに……相当ショックを受けました。

ある日、生理痛の悪化でしんどい時に暴力を振るわれた私は、さすがに堪りかねて母に助けを求めました。母はすぐに駆けつけてくれて、彼に説教してくれたのですが……効果は全くありませんでした。

何度も自己正当・暴力肯定発言を繰り返す彼にげんなりした私は、彼が出張で家を空けた時を見計らって、一旦実家へ、自分の荷物を全部持って帰りました。

この時は、母にさんざん「今まで父親らしい事は何もしてこんかったっちゃけん、協力しぃ!!」と言われ、父も渋々(?)協力ーー母が運転するセダンと父が運転する軽ワゴンに私の荷物をギュウギュウ積み込んで、実家へ。少しは父へ感謝しかけたところが、帰る途中にお腹が空いてきたのかだんだん父が不機嫌に……てんこ盛り積み込んだ軽ワゴンが加速できるはずもなく、都市高速に乗ったものの、左車線をちんたら行くしかありません。

顔をしかめ「腹減った」としか言わなくなった父にげんなり。「今すぐ都市高降りてうどんでもラーメンでも食べりゃーいいやん!」と切り返すと「財布持って来んかった」ーーもう知るか、こんバカチンが!!
言うと運転中でも殴られそうだったので、心の中で叫びました……

絶対、父のような男とは付き合わないと思っていたのに、同棲したのが父のような男だったとは、なんとも皮肉な話です。

昔から結婚願望はこれっぽっちもなく、父方祖母に「さやちゃんのウエディングドレス姿、見たいわ」と言われた時も「いや、絶対ない」と否定して悲しませてしまったこともある私。

この件でなおさら、結婚の『け』の字も脳内から消えたのは言うまでもありません。



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学生時代から少しずつ重くなっていった生理痛は、社会人になる頃には、たまに起き上がれないほどの激痛に見舞われるような症状が現れ始めました。
当時勤めていた会社は女性社員が多かったにもかかわらず、生理痛に関する理解度はこれでもかというほど低く、最初の支店勤めの係長も女性であったのに、私が『休暇名簿』なる帳面に名前と理由を書くと、

「体裁悪かけんが、『腹痛』って書かんね」

などという始末。休暇名簿の但し書きには『偽りの表記はしないこと』と明記してあったのに……

「何が体裁悪いのか、理由を教えてください」
「だって、体裁悪かもん」
「説明になっていないじゃないですか。明確な理由を教えてください」
「……私、分からんけんが、社長に聞いて」

上司のくせに、訳分からん屁理屈こねおって。分からんなら、いちゃもんつけんじゃねー!!!! と、までは言いませんでしたがーー以来、上司は私が挨拶してもこそこそした態度を取り、2年目は上司が変わりましたーー

話、それたな。

良くも悪くも融通きかなかった会社人時代、何が辛いかというと会社の待遇よりも生理痛でした。仕事中に始まると、もうまともに働けない日もありました。

思えばこの頃から、じわじわと子宮の病が進行していたのだと思います。

生理痛で年12日の有休はあっという間に消化、年度も末頃になると欠勤する羽目になりました。心身プラス生活も痛い状況……
女性社員が多いのだからと社長に『生理休暇を設けてくれ』と直談判してみたこともありましたがーー給料減らされただけでした。

こんな会社、もう勤めとられんと思う度に『石の上にも三年』と自分に言い聞かせました。その実、私がこんなにあっさり会社に就職できたのには、訳がありました。
会社勤め2年目に入る頃に知ったのですが、その会社の入社試験を受けるのを知った大学の教授達が、試験を受ける前に会社に電話してくれていたのです。

私を推してくださった先生方のためにも、やっぱり石の上に三年。生理痛で休まなんはきついけど、それが原因で給料も三年間全く昇給しなかったけど、頑張りました。

それだけでなく、大学の先輩方があちこちの市町村で発掘に携わっていたので、他部署の上司や先輩から、

「どこそこの調査員さんから、『さやは元気でやってますか』って聞かれたよ」

などと報告受けると、『今日辞めようか明日辞めてやろうか』という気持ちが、良くも悪くも遠のきました。

もし、私に生理痛がなかったら、文句垂れながらもまだその会社に……いや、それはないな。転職はしていただろうと思います。
とにかく、生理痛とその前後のイライラとで、心も体もそれまでに増して、負の連鎖に傾き始めました……
社会人デビューが独り暮らしデビューでもあった私は、まだまだ親に管理されている部分がありました。

まず、体力面を考慮しての『健康食品』。一ヶ月に一度まとめて、母が直接持ってきたり郵送されてきたりしました。
次に、電話。十日から二週間に一度は必ず母が電話をかけてきました。
そしてーー合鍵。二本あった鍵の一本は母が持っていて、帰宅するとおかずが鍋に入っていたり、うっ散らかしていたのがビシッと片付いていたり……だいたい置き手紙で『来た』アピールされていました。

あれこれしてくれるのは嬉しいけど、度が過ぎるとただのありがた迷惑でしかありません。

独り暮らしも一年経った、ある日。独り暮らしにも慣れ、その環境を満喫し始めた頃でもあり、いい加減、母から合鍵取り戻さなんと思っていた矢先のことでした。

学生時代、恋でさんざん挫けていた私は、『遊び友達』なら気張らずに付き合えるので、ちょっと『その気』になった時のために避妊具を買い置きしていたところーーそれを私が留守にしている間に母が発見。
帰ってくる頃を見計らったか、電話がかかってきました。母は藪から棒にこう言いました……

「あんた、アレ何よ?」
「アレって何よ?」
「アレよ……キャップ」
「キャップ??」

母が何を言いたいのか察知した私は、

「まだ生活微妙だのに子どもできたら困るやん。てか、もう未成年じゃないっちゃけん、干渉される筋合いはないったい」
「……そりゃそうかもしれんばって……」
「何よ」

日本語にならない呟きが聞こえて、私は一方的に電話を切りました。その足で実家へーー
一悶着の末、母からアパートの鍵を取り上げて、帰宅。

その後は家移りしても、母に鍵は渡しませんでした。心配してくれるのは嬉しいんだけどね母さん。大人になればなるほど、親が干渉できる範囲は狭くなっていくんだよ。そして、いずれは、その範囲もなくなるの。

誰よ、「子どもにはさっさと親離れして欲しい」って言ってたの……この事件まで、合鍵を手放そうとしなかったあたり……母の方が子離れしきれていなかったのかも、しれません。
小さい頃から、どういう訳か歌うの好きでした。しかも、小さい頃になればなるほど、人前で歌うのが好きだったようです……記憶にはありませんが。(苦笑)

今では、湯船に浸かった時に鼻歌程度です。カラオケの空間は、実は苦手……押し入れで寝るのとか好きだったくせに、暗く区切られた空間が息苦しくて。押し入れとの矛盾は自分でもよく分かりません。

私は大学の時の心理テスト以来、ちゃんとした『自閉症』診断は受けていません。いい機会なので、心療科かかってみようかしらん……きちんと診断受けたら、後日報告しますね。

『酒は百薬の長』なんて、昔の飲んべえが考えた方便だとーー私も思います。今はすっかり下戸です、多分。

大概、飲助だった私も、深酒が過ぎて二日酔い三日酔いになることはありましたーーだいたい、そうなる時は決まって頭の中に『回転木馬』がエンドレスで流れます。くるくーるまーわーるーーーー♪ かいてーんもーくーばーーーー♪

編み物は、棒は全然ダメ、かぎ針は頑張れば少しはできる程度で、大学時代は祖母に手取り足取り教えてもらって、帽子を編んだことがありました。
形になったのは、その帽子だけ……ぐふっ。

カマキリに限らず、生き物の卵って神秘的ですよね(笑)。やらかしたのはうちの弟だけではないのですね。今度、兄弟がいる友人にも聞いてみます。

私の父は、うつ病から逃げるために酒を飲んでいたように思います。楽しむお酒が苦しむお酒にならないよう、摂取量は自分自身とよくよく相談しつつ、ですね。
何より飲み過ぎないのが一番です。飲めなくても、楽しめるものがあればそれでよし! ということで……

免許取りたて、初心者マークの1年間は、本ッ当に事故の多い1年でした。追突は日常茶飯事、通勤ラッシュ時に加えて初心者だったのもあって、ほとんどは「気をつけろよオイ!」と怒鳴られるだけで許されていました。当時追突してしまった皆さん、許してくださってありがとうございます。
帰宅中に居眠りして路肩に脱輪とか、側溝に片輪はまるとか、電柱にサイドミラーこっつけるとか。どんだけ事故起こしたん、私……つくづく、命に関わるような事故でなくて、良かったです。

車の契約は、これまでにないくらい大・大・大激怒でした。あの時、頑として受け入れない姿勢を通せば良かったと、今でも後悔しています。次にそんなことされたら、断固受け入れないつもり。
自分の買物についての契約は本人主体が当然とはいえ、それが家族で共有する物なら、まず家族に相談して欲しいですね。

拍手ありがとうございます。体調の波間に記事アップしていますが、たまに毎日更新できない時も……できるだけ、1日1記事載せられるように邁進していきます。
当時は携帯電話はとても高く、庶民が持てるアイテムではありませんでした。なので、一人暮らしが始まってすぐ、固定電話を付けました。設置するのに10万近くかかり、イタイ出費でした……

それはさておき。

入社式当日の深夜ーー何時頃だったかは覚えていませんが、電話がかかってきました。身内に何かあったのかもしれないと、渋々電話を取ってみると、何と父方祖父からでした。

「階段から落ちた」
「はっっ!?」
「◯◯(祖母の名前)が階段から落ちたんや」

父方祖父宅には、10数段と踊り場を挟んで数段の階段がありました。気が動転しているらしい祖父の様子から、段数多い方の階段を転がり落ちたのだろうと察知しました。

「お祖父ちゃん落ち着いて、まず救急車呼んでください。うちは明日(今日だけど)入社式なんで、今からそっちに行くことできませんから、とにかく、救急車」

ガチャン、ツーッツーッツーッ。最後まで言う前に電話切られました。ちゃんと救急車呼べたかしら……心配ではあるものの、当時の私に祖父母を思う余裕はありませんでした。

慣れない車通勤に加え、週休二日は隔週。何とかまともに通勤できるようになった1ヶ月後、やっと祖母のお見舞いに行きました。
病室に行くと、たくさんの管に繋がれた祖母がーー私がいなくなってから、一気に気が抜けたのでしょうか。まともに見ていられず、寝ていた祖母を起こすことなく泣きながら帰りました。

祖父母宅の階段の踊り場は洗濯物を干すスペースになっていて、祖母はその洗濯物を階段に腰掛けてたたんでいました。少ない段数の階段に腰掛けてたたんでいることもありましたが、昼も薄暗い階段で、窓や灯りがついているのは、段数の多い階段の突き当たりでした。
私が居る間も、たまに段数多い階段に腰掛けて洗濯物をたたんでいるのを見かけたことがあり、

「お祖母ちゃん、落ちたら危ないけん、こっちに座りよー」

と声をかけたことがありました。祖母はそういう作業をしながらうたた寝すること多々あったので、気がかりではあったのですがーーまさか本当にそんな事故が起きてしまうなんて。

祖父は自分が医師であったために、周りの意見に全く耳を貸しませんでした。更に、自分が病院経営していたのもあって、祖母を県外の病院に入院させることなど全く頭にありませんでした。
祖母は、首から上しか動かすことのできない体になってしまっていました。それでも、当時、そのような重症患者さんもしっかりリハビリしてくれる病院があったのにーー「そんな遠くの病院に入れたら看病できん」と自宅近くの病院に入院させ、祖母を『寝たきり』にしてしまったのです。

車の免許取ったから、今度は私が運転してドライブ行こうと祖母に約束していた私。社会人のっけから、この約束は絶望的になったのです。

お喋り好きで、とってもアクティブだったお祖母ちゃん……5年もの長い長い寝たきり生活を送って、星になりました。
自他共に認める『お祖母ちゃんの秘蔵っ子』だった私は、祖父には内緒で分骨して、そのお骨を祖母の戒名を書いたハンカチに包んで御守袋に入れ、遠出する時には必ず連れて行っています。


4月1日、入社式。本社近くのアパートで一人暮らしを始めていた私。同僚は5人で歳も近く、すぐに仲良くなれたのは良かったのですがーーしょっぱなから心挫かれる事件がありました。

私は、3月半ばから研修期間の半年を先取りで、バイト入社していました。その時に「新入社員は全員、最初の一年は本社採用」と聞かされていたのですが……入社式でもらった本社の机に、私の名前はありませんでした。


よくよく見ると、本社から30キロほど離れた支店の所に私の名前があるじゃあありませんか。社長に直接理由を聞くと、

「新入社員の中で車持っとるのが、あんたしかおらんかったけんが」

理由になっとらん。すぐさま母に電話して会社に来てもらい、「契約違反だろう、本社採用にしろ」と訴えるも、

「その分の手当はつけるけんが、支店行って」

ーー初心者マークが毎日30キロ往復ですかそうですか。その日のうちに辞表書こうかと思いましたが、母から、

「しょうがない、石の上にも三年や。三年、この会社から盗めるもん(技術)はみんな盗んでから辞めり」

と言われて思いとどまり、過酷な通勤生活が始まりました。

その分の手当というのは、実質ただの交通費でした。悔しいので、遠回りした道を先輩社員に教えてもらい、その距離を通勤距離で登録。実際は教えてもらった近道を走って10キロ分、稼ぎました……雀の涙程度ですわ。

こうして、好きでもないマイカーに毎日乗る羽目になった私。けれども、このおかげで、随分と運転技術が向上したと、今では思っています。
車の免許を取った後、父から「買い替えるけん、(今乗っている車は)譲っちゃる」と言われていた私。大学卒業するまでそのつもりでいました。まぁ、あまり信用ならない父との口約束でもあり、免許取りたての初心者でもあったから、もし自分で入手するなら中古車とも考えていました。

ところが。あーる日、突然。

母から、

「あんたの車ね、車種も色も決めといたけん。頭金10万も立て替えといたけん。払ってちょうだい」

……なんですと?? 私が買う車、とするなら、私に決定権があるんじゃないの? てか、何の相談もなく既に頭金まで払ってるってどういうこと!?

しかも、その車を選ぶのに、弟が相談に乗っているのっておかしいでしょ絶対。母は、父に車を買い替えさせないために、弟と共謀して私に車を買わせる算段した……としか思えなかったです。

しかも、私が緑色嫌いなの知っているくせに、選んだ色が薄緑メタル。その車種にはベージュメタルやゴールドといったお洒落な色もあったのにーーなんで、よりにもよって緑なん!!??

既に契約して頭金まで払っていて、しかも「立て替えといた」ですって。激怒したのは言うまでもありません。

結婚するまで、約7年その車に乗りましたが、まぁっったく愛着の心はなく、乱暴に乗り回しては追突や自損事故を繰り返しました……

車も嗜好・趣味の1つです。自分の好みが一番ですよ。次は外車乗るぞー!(笑)

卒論の構想もほぼ仕上がり、成り行きで教職免許の資格取るべく教育実習にも行った私。けれども、私の人生目標は『大学で、最低でも一般人ギリギリの体力を身につける』だったので、その先のことはまるで頭にありませんでした。

大学4年の秋ーー数年前にバブル崩壊して就職氷河期の始まりであった当時。どうせ就職浪人するくらいなら大学院に進むという選択肢を進む者もいる中、私は、家庭の事情を考えるとどうしても就職せなんと思っていました……が。
夏休みから自動車学校へ通い始めるもなかなか課程進まず、何を仕事にすればいいかの見当もつかず。

就職案内掲示板の募集を眺めては溜息を吐く日々を送っていました。

就職する業種、場所、あまりお金がかからずに移動できて自分が無理なくできる仕事ーー絵を描くのが好きではあったけど、自分が選んだ学部は史学科。丸暗記に頼っていた高校時代の延長で大学を選び、難なく合格したものの、人生計画がそこまでで止まっていたことに気づいたのは……20歳を過ぎてからでした。

受講していた科目の都合上、取れる資格は中高社会科教員と学芸員で、それが活かせる仕事となると、教員になるか、学芸員の資格が必要な所に就職するしかありません。
口下手で人に物を教えるのが苦手な私はそれでも、教育実習へ行って教員試験・地方公務員の試験も受けに行きましたがーー本気で教員、公務員になりたい人達との温度差を痛感しただけでした。
学芸員になると、もっと無理……

そんなある日、就職の募集掲示板に『学芸員優遇』と記載している会社を見つけました。実家隣県で遺跡の測量専門会社、ここなら、今まで学んできたことも活かせそうーー冬休み、やっと車の免許が取れた三日後。会社の就職試験に行きました。

実家に帰省していた私は、母が教官・妹も同乗した車に乗って、当時『初心者は通らんやろ』と言われていた山道を越えて、隣県の会社へ入社試験を受けに行きました。
初心者マークで山越えした私は、試験を受ける前に頭真っ白。どんな試験内容だったか、これっぽっちも覚えていません! とにかく、激減した気力を無理やり絞り出して試験を受けている間、母と妹はなんと遺跡公園に遊びに行っていました……なんて人達だ……母いわく、

「待っとる間は暇やん」

おっしゃるとおりでございます。

その後、卒論も書き上がって友達とどんちゃん騒ぎをしていたところ、実家から電話がかかってきました。

「あんた、合格通知来とぉよ」

ーー就浪するどころか、就職先もあっさり決まってしまいました。これでいいのか私の人生……この段階では『案ずるより産むが易し』な就職の壁でした。

中学も高校も、まともに通えていなかった私。大学生になってようやく、ほぼ毎日通えるようになったのですが、その分、人間関係や自分自身と向き合う機会も増え、さんざん悩みました。

一般的に、思春期とは10代半ばから後半に起こる、感情のコントロールが難しい時期のことーー私の場合、中高時代は闘病中で、主に薬の副作用に対する不快さと生理前後の苛立ち、体や思考が思うように働かない歯痒さなどが、感情コントロールできない要因になっていたようです。

端から見ればそれこそ『思春期』だったかもしれませんが、私のそれは、大学時代だったように思います。自分と向き合えば向き合うほど、『脳内自分』が増殖して収拾つかなくなった、あの頃。

だからといってさすがに「死にたい」とまでは思いませんでした(正直、自分で死ぬのは怖かったです)。ただ、海に飛び込んだら生まれ変わるとか、一人で山に登ったら人生観変わるとか、実際にやってみてはがっかりして帰るーーそんなおバカな事を懲りずに繰り返しました。

人間関係の壁と現実逃避と葛藤。揺れる自分の心をコントロールできないのが堪らず、泣きながらのワンゲル活動と飲酒にどんどん溺れていきました。

大学生活自体はとても楽しいものでした。けれども、自分と向き合うことになると途端に嫌気が差す、喜怒哀楽のビッグウェーブ。
いつしか、大学に行ったりワンゲルの活動に打ち込んだりゼミの活動に集中することが、自分自身に対する現実逃避になっていきました。

お酒は、飲み方失敗すると、トコトン負の奈落へ落ちていきましたね。そして、酔いが覚めると憂鬱になるーーホント、あの4年で一生分飲んだわ。

この絵は学生時代に描いたものを縮小トレースしました。やり場のない気持ちが溜まってくると、何かしら書いて、描いて発散していたなぁ。発散し切れることは、なかったけれど……






自分のことを好きになれないまま、周囲の男の子や先輩に気を揉んだのが大学2年から4年の頃でした。
男女関係というものがどういうものかは既に知ってはいたものの……それは全て、初恋の彼のエスコートによるもの。相手に対してどうしたいとかどうすればいいとか、一切考えたことはありませんでした。
彼に身を任せていれば、全て解決していた初恋。自分から相手を好きになって、積極的にアプローチしていたのは小学低学年以下の頃で、大人になりかけの大学生が同じことをできるはずもなく……空回りばかりしました。

そうでなくても、言葉で自己主張するのが苦手な私は、それを取り繕うために吐かなくてもいい嘘を吐き、張らなくてもいい見栄を張りーー好きな相手がかえって引いてしまう言動を繰り返し、独りで落ち込む負のスパイラル。

今思えば、子どもの頃のように、自然に素直に気持ちを伝えればそれが最善策と解りますが、当時は『大人気取り』だったのでしょうね。背伸びしすぎていたのよ。
私が大人気取りなら、相手も大人気取りであったなぁ……当時は気づく余地もなかったけれど。

特に、大学2年の冬から付き合い始めた2つ年上の先輩とのセカンドラブは、自分の想いと思考のギャップ、先輩の本性が垣間見えたショックで、これまた強烈に心傷つきました。
教育実習の手続きが始まる大学4年の春。先輩とのお付き合いに耐えられなくなった私は、先輩に本心を追及した挙句、その足で北海道まで傷心旅行しちゃいました。

教育実習の手続き期限ギリギリの5月半ばまで約2週間、北海道の友人宅にお世話になりましたーー本当に、すみませんでした。長期滞在させてくださって、ありがとうございます。

これだけの逃避行をしてもなお、20代半ばを過ぎるまで、まともな恋ができなかった私……やっぱり、他人よりもまず、自分を好きにならないと、でした。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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