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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

2025/07    06« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »08
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物心ついた時には既に手元にあり、今も続いている趣味というか、ライフワークというかーーそれがビーズ細工です。
母は編み物・裁縫はやるけれど、ビーズのような細々したものは苦手な人で「教えた記憶ない。気づいた時にはもう持っていた」と言っているので、おそらく父方祖母が私に教えてくれたのだと思いますーー1歳7ヶ月から2歳の頃??

父方祖母は、とても手先が器用な人でありとあらゆる手芸通でもありました。編み物・フラワーディップ・リリアン刺繍・ビータッチ・ビーズ細工……裁縫をやっている姿を見たことはありませんが、手元に納まる細工物にかけては、そのスピードも仕上がりも素晴らしいものでした。
また、本人から何か教わることはありませんでしたが、母方祖母も色彩感覚豊かな裁縫名人で、買ってきた服が味気ないからと自分でカラフルな刺繍を施したり、座布団・クッションカバー・手提げバッグ・エプロンなど作るのはお手のものでした。

母は「あんたは隔世遺伝だろうねぇ」なんて言っていましたが、そんな母も裁縫嫌いと言いながらミシンを使いこなし、私が子どもの頃は服をたくさん作ってくれました。

「子ども服高かったけん、作らざるを得んかった」

いやいやいや、母さん、ありがとね。

だいぶ話逸れたな……

そんな血筋の私はーー編み物も裁縫もダメダメですが、色彩感覚と手先の器用さは受け継いだようです。中でもビーズは、作成意欲にムラがあるため数年放置な時期もありましたが、ずっと手元に残してきたものでした。

最初はもちろん、ただ糸に通すだけのシンプルなもの、次第に物足らなくなってきて、立体物に取り組むようになり、大人になってからはインストラクターの資格も取って……現在は原点回帰で、糸に通すだけでどこまでアレンジできるかにハマっています。

ビーズの他、裁縫も編み物も全くやらないことはないのですが……母や祖母には足元にも及びません。
いいや、1つでも特技があればと思う、この頃です。←諦めた(苦笑)




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私には2つ年下の弟がいます。子どもの頃は虫キチで、2、3歳の頃にはポケットにダンゴムシなど入れてくるような子で、小学生になると祖父に昆虫図鑑を買ってもらったり、昆虫採集セットを買ってもらったり、末は昆虫博士かというくらいの虫好きでした。

その影響か、ただ張り合っていただけのかーー私もよく虫取りに行きました。特に夏は、セミ捕りに出かけたものでした。
最初に現れるのが、ニイニイ、ミンミンとアブラ、暑さ真っ盛りになるとクマ、お盆を過ぎるとツクツクボウシ。
当時は団地の間にたくさん木が植えてあったり、公園に林があったりして、セミだけでなくコガネムシ、カナブン、カミキリムシ、クワガタ、稀にカブトムシ……草むらでは蝶、バッタ、カマキリ、トンボなど、大物はだいたい弟が、小物は私でも捕まえることができました(笑)。

私は素手でも捕まえられる蝶とカマキリが大好きで、特にカマキリは何かと話題を作ってくれる虫でした。

これは弟がやらかした事件なのですが、冬にカマキリの卵を取って来て家の中に持ち込み、春と勘違いした卵から大量のカマキリの子が出てきたことがありました。母にしこたま叱られ、生まれてきたカマキリの子達は可哀想に掃除機で吸われました。
ある意味、昆虫の生態というものを体感した事件でした……

私がやらかしたのは、高校時代。通学でバス停に向かう途中、道路の真ん中にカマキリがいるのを見つけました。そこそこ交通量もある道で轢かれると可哀想だと思い、道の端に避けてやろうと手を伸ばしたら、バッと羽を広げて私の肩を超えて行きました。
振り返っても姿が見えなかったので、だいぶ飛んだなと安心。そのままバスに乗りましたーーいつも、通勤ラッシュを避けて早いバスに乗っていたため、教室の鍵はいつも私が取りに行っていたのですが、教室で宿題チェックしていると、私の後から教室に入って来た女の子達が一斉に悲鳴を上げたのです。

「キャーーーーッ!」
「さーやん! 首に鎌っ鎌っ!」
「ヒッ、左、左!」

首に、鎌? 指差された側の肩に手をやると、何かが私の指を引っかきました。そのまましっかり引っかかったモノを見てみると何と、バスに乗る前に助けようとしたカマキリでした。

「あんた、私と一緒にバス乗ってきたとね?」

バスには私の他にも乗車客がいたのに、誰も教えてくれなかったぞ? ペットと思われたのかしらん……中庭の植え込みに逃がして、めでたしめでたし。その後、一部始終を見た子達に『首に鎌事件』と命名され、怪談のように語られましたーーその時になって、女の子の大半はやっぱり虫は苦手なんだと痛感しましたーー

社会人になって、夏場ーー手の届かない壁にセミが止まって鳴くのが堪らず、捕虫網を買いました。子どもの頃ほど酷使しないので今もその網は現役です。
現在住んでいる所、最初の頃はハトがベランダにのさばっていたので、これも捕虫網で撃退。2年ほど前からカラスが進出してきて、ハトのフン害はなくなりました。

話、逸れたな。

昨年はこの網で、アブラ1匹クマ3匹をキャッチアンド(遠くで)リリース。マンションでセミが鳴くと声がやたら反響するから、クーラー入れていても気分的に暑くなるのよ……でも、いざセミ捕りしだすと、虫かごがいっぱいになるほど虫取っていたあの頃の血が騒ぎ出すのです。





あまり大きな声で言えることではないのですが……私の父は、自分の弱さから逃げるために酒に溺れていました。それだけでなく、空腹に耐えられない質で、お腹が空いている時は「俺の飯は(まだか)?」と不快な空気を撒き散らすは、少しでも癇に触ると「誰が稼いできよぉと思っとぉとや」「ガタガタぬかすと打ちくらすぞ」と至近距離からでも物を投げつけてくるは……小心者なのに見栄っ張りで、気の短い人でした。

そのくせ、外面ばかり良くてーー入院中は、見ず知らずの父の仕事関係の方々がたくさんお見舞いに来てくださったり、食事に招待してくださったりーー周りの人には恵まれている(?)人でもありました。

そんな父は、自分がお酒を飲むのに口実を作りたかったのか、一人で飲んで家族から浮くのを避けたかったのか……良くわかりませんが、私や弟妹も子どものうちから晩酌に付き合わされていました。
元々酒に強い家系というか酒を好む血筋であったようで、ただお酒を飲まされる分については、全く嫌ではありませんでした。

中学生になると、外食する時は何故か私にも1本ビールが付きました。高校生になると、飲み屋をやっていた友達の店に制服のまま繰り出し、補導されかけた事もありました。

「こらっ! 高校生がどうしてこんな時間こんな所に」
「私達、コスプレでーす ♪ 」

呆れた顔して通り過ぎていく後ろ姿を、手を叩き笑って見送ったり、一人で飲み歩いていた時は、

「おい、こんな所で何やってる」
「……お父さん、探しに来たんです」
「……そうか、大変そうだな」

わざとうつむいて、泣きそうな顔をして見せると何とかなりました。我ながら、悪賢すぎーーいろんな言い訳を口にしながら、どんどんお酒にはまっていった10代後半。

私自身、自分の弱さを一時でも忘れたくて飲んでいた……と思います。それ以上に、お酒大好きになってしまっていました。全く、救いようのない血筋(の、せいにしておこう、うん)。

大学生になって、父方の里に居候するようになると、祖父がお中元やお歳暮で貰っていた洋酒にも手を付けました。ワンゲルもゼミも、いわゆる『飲んべぇ』が多かったので重宝しましたーー祖父は日本酒派だったため、洋酒は劣悪な環境(温泉地であり西日がガンガン当たって冬でも生ぬるいような所)の倉庫に入れっぱなしになっていたのですーー誰も飲まないお酒を倉庫に山積みにしてあったものですから、掃除を兼ねて(口実)。

卒業する頃には、倉庫から溢れんばかりに積んであった洋酒はすっからかんになりました。何十年と寝かされていた『超・賞味期限切れ』洋酒から持ち出していたのですが、最後の頃はようやく賞味期限内のものに。

どんだけ寝かしとったん……てか、そんな古ぅいお酒、よく飲めたわ。私を含めワンゲル、ゼミの皆さん……

全盛期だった20歳は、同期四人と飲んで空いた一升瓶が12本、なんてこともありました。もう並の飲酒量ではありません。さすがにこの時は一緒に飲んでいた面々も驚きました。

大学卒業後、一人暮らしを始めて3年は「ただいまビール」状態で毎晩500ml缶飲んでいましたが、会社勤めを辞めてお酒にお金をかけていられない生活になり、飲酒量は急降下。
お酒に頼らなくてもいいような精神状態になれたから、というのもあるかもしれません。

それにしても、父のとんでもない飲酒教育に、何も言えなかった母が気の毒でなりません。というか、全然止められた記憶がないんだけど、何でな? 母さん……


20歳になる年の大学生活は、1年の時よりは多少楽しめる方向に進みつつありました。ワンゲルに女の子が一人入部してくれて、その子と私は『ワンゲル運命共同体』になりました。

「良かった……今年、女の子入らんかったら、続けるかどうか考えとったわ」
「いや、先輩。私も先輩おらんかったら入部してません」

後輩が入ってきたことで、今までギリギリの精神力だけで続けてきたワンゲルも、少しだけ楽しくなりました。

そして、夏休みは、主治医から「もう通院しなくていいよ。完治とします」と言われ、更に少しだけ心軽くなった私。ただ、祖父からは「安心ならんから採血検査は続けなさい」と、卒業するまで毎年採血されました。なんだかんだ言っても、私を心配してくれてありがとうお祖父ちゃん。

秋の講義が始まってからしばらくして、心理学の教授から「もし余裕あったら、空きコマに研究室に来てもらえないか」と声をかけられました。必修科目でもあった心理学受講していたのですが、何かの適正テストやらロールシャッハテストやら、授業の一環で受けていたそのテスト結果について、話があると言われたのです。

自分の空きコマを告げて、先生のご都合に合わせて研究室を訪ねたところーー

「僕の息子がね、自閉症なんだよ」
「はい?」

突然の告白に一瞬茫然としかけた私は、

「莢猫さんも自閉症の『ケ』があるね。こないだやったテスト結果から判ったんだよ。テスト受けてもらった学生の中では君だけだったから、講義中に言うのはどうかと思って」
「はいぃ?」

次の先生の発言で、開いた口が塞がらない気分になりました。

……白血病完治の次は自閉症ですか……

「自閉症というものは先天性なんだよ。子どもの頃から、いろいろ大変だったんじゃない? 何を考えているのか分からないとか、言われたことない?」

言われてみれば、思い当たることばかりですわ、先生ーー何もかもが自閉症のせいだとは思いませんでしたが、先生は、

「それは君が悪いんじゃない、周囲の理解の足りなさが悪いんだ」

とおっしゃってくださいました。一瞬心沈みかけたけれど、息子さんが自閉症であることを明かした挙句のお話だったから、大変なのは私より親だったかもーーと思い直すことができました。

その日、帰ってすぐ祖父に『自閉症』がどんなものなのか聞きまくり、特集が載っていた医療雑誌も借りて読みましたーー専門用語ばかりで理解するのは大変でしたが、自分自身に対して納得することができました。

『どうして自分はこんなんだろう』から『自分は自閉症だからこんなんだったんだ』に変わって、心持ちも少しずつ変わっていきました。

ワンゲルに打ち込むようになってからというもの、毎日のように「最近の若い者は云々」「近頃の女の子は云々」と、食事の間中、祖父から説教されるようになった私。

「さやは全く、女らしくない」
「女らしさって何ですか」

腹が立って聞き返すと、

「女らしいというのは、おしとやかさだ。さやはおしとやかさが足らん」
「おしとやかさって何ですか。私でも解るように具体例を挙げて説明してください」

売り言葉に買い言葉ですよ。くだらない押し問答を繰り返しました。私がいちいち言葉尻捉えて聞き返すものだから、しまいには祖父が食卓を離れて、私もその隙に自分の部屋に逃げていました。

さんざんマイナスオーラな言葉をぶつけられ続けるとさすがに心もヘタレます……人形と同じくらい、鏡で自分の顔を見るのは嫌いだったけれど、この時期は人生で一番、鏡を見ていたと思います。

(今も鏡を見るのはあまり好きではなくて、顔を洗う時も歯を磨く時もほとんど鏡見ません)

祖父が言う『女らしさ』というのがあまりにも古典的で、全然耳に入ってこなかったです。今も聞く耳ありませんが。(笑)
とはいえ、女らしくないのは何となく自覚していたものの、それならば『自分らしさ』はあるのかしらと悩みました。

そもそも、初恋の彼が自分のどこを好きになってくれていたのかも分からないままーー姿見えない形でお別れしてしまったので、なおさら、鏡を見て自問自答したような気がします。


鏡を見ては泣き、いろいろとマイナス要素を思い出しては泣きーーなかなか、自分が好きになれませんでした。
ちょうどその頃、何かの本に『人を好きになるなら、まず自分から』と書いてあったのを読んでショックを受けたのを覚えています。

私、自分のこと好かんやん! 人を好きになるなんて無理!!

その頃、テレビや本でもちょっとした『心理テスト』ブームがあり、私もどっぷりはまりました。自分を好きになれない理由が欲しかったのかな……





私の中では、やっぱり一番ダメなのはGですね。ムカデは、噛まれた所があんなに腫れたりしなければ、あまり嫌いな虫ではありません。むしろ怪獣みたいで好き、とまでは言えませんが面白い虫だと思っています。

大人の無神経な言葉が、世の『いじめ』を増幅させているような気がしてなりません。特に、小学校では……先生の何気ない一言が、子ども達の中で伝言ゲームのように歪んで伝わっていじめになっていくケースは、多々あるような気がします。
私は特に6年間、担任との相性が悪く目の敵にされていましたから、2年と4年の時のいじめは辛辣なものでした。毎年担任が変わればいいのにと思いましたね、ホント。
親も、当時は『先生は偉い』思考がまだ残っていた時代だったと思います、私の味方になってくれることは絶対ありませんでした。何につけても「できない、やらない、あんたが悪い」ーー大病やらかさなかったら、とんでもない非行に走っていたかもしれません。

大城先生に出会うまでは、本当に、絵を描く事は嫌で嫌でたまりませんでした。小学低学年までは弟の方がうまくて、コンプレックスですらあったのです。
絵を描くのに、技術を追求しだすと色々難関ありますがーー基本、「これを描こう」という気持ちと、描きたいものを細かいところまでよく見るーー私が『サバ』から絵が描けるようになったのは、その形、ヒレがどこについているのかとか、その数、エラや口、尻尾の形、色や模様はどんな感じか、そういった細かい観察眼を養うことができたからだと思います。

苦手意識は自分で刷り込んでしまうもの、「苦手だからできない」の枠に自分をはめ込んでしまうのはもったいない……「苦手だけど、やればできる」という言葉に置き換えてみてはどうでしょう?
私は裁縫大嫌いです。けれども、縫って作った物は沢山あります。「これは大嫌いな裁縫じゃない、大好きな工作なんだぁ!!」と自分に言い聞かせながら……欺瞞と言わないで(笑)。

父方里に預けられていたのは1歳から数ヶ月で記憶は全く残っていません。母の話によると、まだオムツも取れていない歩きもおぼつかない頃に行って、帰って来た時にはオムツも取れて走り回り、言葉もはっきりした口達者になっていたそうです。一体、祖母は私にどんな教育してくれたのでしょうね。
魚屋や文具屋のおばちゃんが聞かせてくれた話は、どうもその頃の話っぽいです。もう魚屋も文具屋も無くなってしまったので、確認することはできませんがーー病院の通りにあった理容室・電気屋・衣料品店の皆さん一同「こぉんなにちっちゃかったさやちゃん」アクションをしてくれれました。『ちっちゃいさやちゃん』は、よほど印象深かったようです。(苦笑)

ワンゲルは、部室に行ってみると完全な男所帯、女は私一人でした。その時点で、回れ右して「失礼しました」と退出したかったのですがーー白血病を患って体力が全く無い事などは、その場にいた全員に話して聞かせました。
しかし残念だったのは、部員全員彼女いなくて『女性そのもの』を解っていなかった……生理痛が酷かった私、これもトラブルの元になりました。何より、普通の女の子よりも体力無かったのに、男のノリで「どうしてできないんだ」目線で槍玉に挙げられていたのが辛かったです。

彼の『ワンゲルがんばれよ』の言葉が無かったら、1年生の秋で別の部へ移籍していたと思います。仲のいい女友達にしょっちゅう愚痴をこぼし、その度に「大変だねぇ。そんならうちの部に来る?」とか誘われていたので。

20代半ばまでは、「初彼が生きていたら」と恋に挫ける度に思い返していました。『ただの好き』と『恋』と『愛』の違いが全く解っていなかったあの頃ーー言葉としての違いは知っていても解っていなくて、自問自答を繰り返した年頃でもありました。
知っていても解らなければ意味がないーー初めての彼が亡くなってからの行動を、この歳になって振り返ってみたところ、何をしたのかようやく思い出しました。

彼は宮崎の人で、ちょうどワンゲルの秋合宿が宮崎で、解散が宮崎駅だった時。彼の親友に電話してお墓参りに行きましたーー合宿が宮崎と分かった時、手紙を全部荷物に入れて持ってきていたのです。
住所メモを片手にバスに乗り、途中何度か人に聞いて、自分が書きかけていた手紙と彼からの手紙をお墓にお供えしました。
ジュエリーボックスに入っていた指輪はーーどんな偶然だか、母がくれていた銀細工の指輪と全く同じものでした(これは覚えていました)ーーこれも箱ごと、手紙の重石代りにお供えしました。
後日、彼のお父さんから電話があったのも思い出しました……「直接電話するのはどうかと思ったけれど」と前置きされて、お礼を伝えられました。

彼からもらった手紙ですが、中高時代、自分の家に持って帰ったことはありませんでした。彼の家の前で読んで、『読んだよ』アピールのために可愛い手紙折りして、彼の郵便受けに戻していました。親に知られないために徹底していたつもりですが、他所のお宅の郵便受けから手紙出し入れしている制服姿の女。不審者紙一重じゃん! 誰にも通報されなくって、良かった……

拍手、ありがとうございます。過去と向き合う中で、正直なところ一番きつい所にさしかかってきたような気がします、が、滞りなく見つめ直していきいたと思います。
大学生活は何かとイベント多かったような気がします。新入生歓迎コンパから、遠征前の壮行会、研究合宿、何かしら行事の打ち上げ、新年会に忘年会。
総称『飲み会』の後には、必ずと言っていいほど『二次会』があって1・2年生ほぼ強制参加ーーそれがカラオケでした。

研究室でもワンゲルでも、女子が少なかった(特にワンゲルは1年間紅一点でした)から、二次会でカラオケ代払った記憶がありません……二次会は先輩方が多めに払ってくれて、残りを男子が割り勘していました。

あれ? 四年になってもカラオケ代は払った記憶がないわ……今更だけど同期男子の皆さん、ありがとう。

父方祖父がカラオケマニアで、自宅にもカラオケセットがあったため、世間に普及し始めた高校時分もカラオケが珍しいとは思いませんでしたがーー(多分、父親にコタツから叩き落とされて以後)、人様の前で歌うのは、幼稚園お遊戯会か小学校学芸会か中高音楽会くらい、しかも歌いまくっていたのが記憶に無いほど小さい頃(おそらく2・3歳)なので、その頃の流行歌しか歌えません。(笑)

歌詞を見なくても歌える、津軽海峡冬景色、氷雨、ブランデーグラス、異邦人、ピンクレディー。歌詞を見れば頭に曲が流れてくるのがザ・ピーナッツとキャンディーズの何曲か、演歌はデュエットも数曲……

「お前、歳いくつや!」

と、よく先輩に突っ込まれていました。(笑)

大学1年の秋ーー初恋の人が亡くなった後。どんな経緯だったのか忘れましたが、河島英五のライブチケットをもらい、行ってみたことがありました。
その時、『酒と泪と男と女』を聴いて……号泣。

それから、カラオケで歌うレパートリーが1曲増えました。

酔っ払った挙句、泣きながら歌う『酒と泪と男と女』……「シャレにならんからやめてくれ」と先輩に言われてからは、たまに独りでカラオケ行って歌ったりしましたーー今、思うと、あれが青春時代だったのかなぁ、なんて、ね。

私が15歳で人生計画を立てるのに、影で支えてくれる人がいました。子ども劇場がきっかけで知り合った、当時大学生の劇団員ーー初めは純粋に『お兄ちゃん』的存在でした。
6歳上だった彼は、私の勉強を見てくれたり、自分の夢を語ってくれていました。

副作用が辛すぎて、「もう死にたい」と泣いて愚痴をぶちまけた時も、授業についていけなくて「解らない所が分からない」負のスパイラルに陥りかけた時も、身内以上に親身になって、受け止め諭してくれました。

私にとって、本当に『良きお兄ちゃん』だったのですがーー高校生活が確定した春休みのある日。彼の方から、

「さやちゃんのこと、好きになったっちゃけど……付き合ってくれんかな。歳上すぎかな」

と告白されてビックリ! 一体、自分のどこが好きになったやら訳分からん、とは思ったけれど、彼のことは『好き』だったので素直にうなずきました。

その時、彼が言った『好き』と私が思っている『好き』は、何か違うな……とは思いましたが、彼と別れる時まで、その違いが何なのか、当時の私には分かりませんでした。

告白されて天にも昇る思いでしたが、現実問題として彼は大学生、世間に知れ渡れば犯罪者扱いされかねません。私は自分が大学生になるまで、ごく親しい間柄以外に打ち明ける事はありませんでした。

特に、親には絶対、知られる訳にはいかないと思った私。彼にお願いして、電話連絡は無し、やりとりは手紙で、彼の家の郵便受けを使わせてもらう事にしました。これでとりあえず、身内に知れることはありません。

大学生で劇団員だった彼。とても忙しい日々を送っていたと思います。自分の事で精一杯だった私は、彼の好意に対して、ただ甘えるばかりでした。

手紙でも、私はどちらかというとネガティブなことばかり書いていたのに、彼からの手紙はたまに厳しい文面もありましたが、優しさが感じられるものでした。

「生きていれば、必ずいいことがある。さやちゃんは将来どんなことをして暮らしたい?」

人はいつか死ぬんだから、それまでにやりたい事全部やっちゃおうよ。全部やるためには、さやちゃんの場合は体作りが必要だよ。とりあえず、20歳くらいまでの計画立ててごらんーー確か、こんな感じの手紙をもらいました。

そこで……高校でできるだけ勉強頑張って、大学入って、あんまりきつくない運動部か何かに入って、最低でも一般人ギリギリ体力くらいは身に付ける……という計画を立てました。
私のすぐ挫けてしまう質を見抜いていた彼は更に、私に『誓約書』を書かせて、

「ここに書いた計画は、家族にも友達にも話して聞かせること。そうする事で、自分に何度も言い聞かせる事にもなるし、良い事を言い続けていると必ず実現するから」

と釘を刺しましたーー彼の言う事は素直に聞けていた私は、この計画だけは、あちこちで言って回りました。

すると、あら不思議! 言った通りに周りが動いていきました!

大学受験もトントン拍子に進んで、祖父母宅で暮らすようになってからは、手紙と、テレホンカードをもらって電話したり……とはいえ、手紙も電話も一方通行だし、ワンゲルの活動がきつく体力・精神的余裕もなくなり、手紙も電話も滞りがちになって、夏休み。



大学院を休学して大阪へ行くという彼を見送ったのが最後になりました。

ーー9月になって、彼が所属していた劇団から小さな小包が届きました。中には団員さんからの手紙と彼が私宛に書いていたらしい便箋とジュエリーボックス。

『彼は照明器具が頭に当たって亡くなりました。これ、さやちゃん宛に持ち歩いていたみたいだったんで、彼の手帳と荷物、勝手に見て送らせてもらいました。ごめん。』

私も知っている、彼と一番仲の良かった劇団員さんから送られてきたものでした。そうでなくてもワンゲルでへたれていた時に、この知らせはショック過ぎてその後の記憶がちょっと飛んでいます。
小包送られてきたのは覚えているのですが、その中身は全く残っていません。多分、その時処分してしまったのではないかと思います……
もっとちゃんと話をすれば良かったと後悔しながら読んだ手紙に、

「最低でも、一般人ギリギリ体力を身につけるんだよな。ワンゲルがんばれよ」

と書いてあるのを見て、クシャクシャに丸めたのは覚えています。

その後、自分の泣き顔を鏡で見ながらカラーペンでスケッチして気持ちを落ち着かせたような気がします。泣き顔のスケッチは残っているのねー……

その後、彼の遺言(?)どおり、ワンゲルがんばって続けていくことになりますがーーほぼ、サークルのお荷物化していた私。続きは『体力勝負編』で語っていきますね。


当時描いた自画像です。あまり似てない……多分。
今まで、運動らしい運動をしたことがなかった私にとって、ワンゲルの部活動は大変過酷なものでした。

月曜日はサークルハウス(大学から少し離れた所に四階建ての建物があり、そこが運動部や文化部の活動拠点になっていました)から大学までの道路をマラソン。大学は扇状地にあったので高低差が半端なく、マラソンどころか歩き通すのも大変でした。
火曜日はバーベルなどを使った筋力トレーニング。バーベルの棒だけでも上がらない……普通でない体力であることは自己紹介の時に話していたのに、なかなか解ってもらえないどころか、無理ばかりさせられる羽目に……当時の副主将がかばってくれなかったら、早々に退部していたと思います。

水曜日は休み。私はここにゼミを入れることにしましたーーが、自分が専攻することにした東洋史で水曜日にやっているゼミは、インドネシア語しかありませんでした。
この流れで、卒論の道筋も決まっちゃいました。(笑)

木曜日はまたマラソン。月曜とはコースが違って更に起伏と距離が倍増……二年生の半ば過ぎるまで、正規ルートで走る(歩く)ことはできませんでした。
金曜日はフリーで体を動かす日。主にストレッチでしたが、バレーボールやサッカー、プラバットで野球などもやりました。
土曜日は装備点検。テント設営競争や『ブス』と呼ばれる簡易ガスコンロの点火競争など、素早く野営できるようになるための訓練も兼ねたものになっていました。

本当に休めるのは、日曜日のみ。後はせいぜい、受講の都合で空いた時間ーー

学業自体はゆるいスタート、サークル活動はハードなスタート。四年間、自分のその後がかかった生活が始まりました。

いよいよ入学式、そしてオリエンテーションーー『史学科』学生としての手続きを済ませた後は帰るだけのはずが、部活勧誘の先輩方でごった返す校内を抜けないと大学敷地から出られない状態になっていました。
大学では、運動部か体を動かす文科系サークルに所属しようと思っていた私は、人酔いしやしないかビクビクしながらなるべく人の少なさそうな所に移動……ふと人混みが途切れて、ホッと顔を上げたら、長机に一人、パンフレット持って座っている先輩と目が合いました。

「そこの君、ワンゲル入らない?」
「ワンゲルって何ですか?」

ーーワンゲルとは『ワンダーフォーゲル』の略称で、主にキャンプなど自然に親しむのが目的のサークルだと説明されました。
キャンプなら小学時代に経験ありましたし、自然に親しむというのは魅力的でもありました。

「分かりました。入部します」

既に人酔いMAX、これ以上人混みの中に居たくなかった私は、仮入部の名簿に名前を書いてサークルのパンフレットを受け取った後、

「すみません、大学の出口どこですか」

とその先輩に案内してもらって、バスに乗って帰宅……祖父にも親にも猛烈に反対された私は、主治医に電話して相談。あまり好きではない主治医でしたが、この時ばかりは感謝しました。

「ワンゲルやるの、そう、どんどんやんなさい」

主治医がこう言うのですもの、祖父も親ももう何も言いませんでした。「してやったり」と思いましたがーー後でさんざん泣きを見る羽目になろうとは、この時は思いもよりませんでした。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
51
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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