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猫空世界〜あんなことこんなことあったでしょー記〜

生まれて初めて触った動物が猫だったサヤネコです(以来ネコ好き)。 十二の時に死にかけ、三十代にも死にかけましたが、まだ生きています。死にたいと思った事も多々ありますが、なんだかんだで生きています。 生かされている事に感謝して、シャーマン始めました。 シャーマン始めることになった話以降は、はてなブログ『超自然主義生活』で記事更新中。

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飼い猫生活が始まって、生協グループ配に参入して、マンション内にも顔見知りが増えてきた頃ーー生協仲間のママ友さんの息子さんが卒園式の日でした。

その日は休みで、私は生理前の不快さで眠れず……寝床でゴロゴロしていたところ、不意に揺れを感じたのです。
微震と思いきや、次の瞬間家具の類も大きく揺れるような振動に見舞われ、私はとっさに電灯の下から部屋の隅に飛び退きました。スパンと襖が開いて、目をまんまるに見開いた飼い主様が、

「大丈夫!?」

めっちゃアワアワオブオブした様子の彼を見て、かえってスウッと落ち着いた私。(笑)
即行で着替えている間に、飼い主様は玄関解放して逃げ道確保。ガス栓閉めたりブレーカー確認している時にまた揺れて作業中断ーー我が家は急須の注ぎ口が欠けただけという被害で済みましたが、酷いお宅は食器は全部割れたとか、建物が半壊・倒壊したとか、町内で支援要請出た時には、毛布や布団、使ってなかった食器やタオル等寄付したのを覚えています。

その後、一月近く断続的に微震が続いて、さすがに怖かった……

何より、ママ友さんとこは卒園式と聞いていたのでそちらの方が心配でしたが、ママ友さんも息子さんも無事で、ホッとしました。卒園式でも誰も怪我しなかったそうで、本当に良かった。

私が住んでいたマンションは地震の被害はほとんどなかったのですが、テレビで倒壊したマンションの映像が流れているのを見たらしい県外の友達から一斉にメールが届きました。

『まず無事!? 何か困ったりしてない? 要るものある?』

テレビの良い所はそういった情報が早く伝わること、悪い所は、被害甚大な地域ばかりを取り上げて、災害に見舞われた地域を全て取り上げてはくれないことーーそこから生まれる誤解に尾ヒレ胸ビレついて巨大な金魚になってしまうのですよーー地震の起きた地域の範囲と、市町村別被害状況を映像付きで報道してくれればいいのに。

被害の酷かった所にばかり報道陣が押し寄せる様は、何とも言い難い光景です……情報伝えたいと言うより視聴率上げたい浅ましさが見え隠れしているようで。(意見には個人差があります)

それはさておき。同じ地域内でも建物によって被害の度合いが全く違ったこの震災で学んだ、用意すべき物事ーー
保存できる水の確保とトイレとスコップと火起こし一式、エマージェンシーブランケット等あると便利、いくらか繰り返し使える紙コップや紙皿。食料はぶっちゃけ、そこらに食べられる山野草生えてますからいざとなったらそれでOK。←飼い主様には断固拒否されましたが「春の七草は摘んでくるやん」とこじつけてやりました。

ていうか、手取り6万家賃3万車維持2万ケータイ維持1万弱生活していた頃は、食べられる山野草で食費浮かせていましたからー ♪
どうしても肉が食べたい時は切り売りしている肉屋へ行って「クズ肉ください」って言うと、脂身とかクズクズなのを袋いっぱい50円くらいで売ってもらえます……今はもう少し高いかもだけど……

あとはーーまだやったことないけど、ハト捕まえるのもありやな。だって、C.W.ニコルさんが日本にやって来た時「なんてうまそうなハトがいるんだ」って思ったそうですもの。日本のハトはきっとうまいに違いないのですよ。

何かーー話、逸れまくっちゃったね。何はともあれ、この時も飼い主様から、

「どんな災害に遭っても、君だけ助かりそう」

と言われたのは、しっかり覚えています。ふふん、生命欲の差よ。そう簡単には、死なん。って、ホントどこから来るんだろ、この根拠ない自信……


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当時は携帯電話はとても高く、庶民が持てるアイテムではありませんでした。なので、一人暮らしが始まってすぐ、固定電話を付けました。設置するのに10万近くかかり、イタイ出費でした……

それはさておき。

入社式当日の深夜ーー何時頃だったかは覚えていませんが、電話がかかってきました。身内に何かあったのかもしれないと、渋々電話を取ってみると、何と父方祖父からでした。

「階段から落ちた」
「はっっ!?」
「◯◯(祖母の名前)が階段から落ちたんや」

父方祖父宅には、10数段と踊り場を挟んで数段の階段がありました。気が動転しているらしい祖父の様子から、段数多い方の階段を転がり落ちたのだろうと察知しました。

「お祖父ちゃん落ち着いて、まず救急車呼んでください。うちは明日(今日だけど)入社式なんで、今からそっちに行くことできませんから、とにかく、救急車」

ガチャン、ツーッツーッツーッ。最後まで言う前に電話切られました。ちゃんと救急車呼べたかしら……心配ではあるものの、当時の私に祖父母を思う余裕はありませんでした。

慣れない車通勤に加え、週休二日は隔週。何とかまともに通勤できるようになった1ヶ月後、やっと祖母のお見舞いに行きました。
病室に行くと、たくさんの管に繋がれた祖母がーー私がいなくなってから、一気に気が抜けたのでしょうか。まともに見ていられず、寝ていた祖母を起こすことなく泣きながら帰りました。

祖父母宅の階段の踊り場は洗濯物を干すスペースになっていて、祖母はその洗濯物を階段に腰掛けてたたんでいました。少ない段数の階段に腰掛けてたたんでいることもありましたが、昼も薄暗い階段で、窓や灯りがついているのは、段数の多い階段の突き当たりでした。
私が居る間も、たまに段数多い階段に腰掛けて洗濯物をたたんでいるのを見かけたことがあり、

「お祖母ちゃん、落ちたら危ないけん、こっちに座りよー」

と声をかけたことがありました。祖母はそういう作業をしながらうたた寝すること多々あったので、気がかりではあったのですがーーまさか本当にそんな事故が起きてしまうなんて。

祖父は自分が医師であったために、周りの意見に全く耳を貸しませんでした。更に、自分が病院経営していたのもあって、祖母を県外の病院に入院させることなど全く頭にありませんでした。
祖母は、首から上しか動かすことのできない体になってしまっていました。それでも、当時、そのような重症患者さんもしっかりリハビリしてくれる病院があったのにーー「そんな遠くの病院に入れたら看病できん」と自宅近くの病院に入院させ、祖母を『寝たきり』にしてしまったのです。

車の免許取ったから、今度は私が運転してドライブ行こうと祖母に約束していた私。社会人のっけから、この約束は絶望的になったのです。

お喋り好きで、とってもアクティブだったお祖母ちゃん……5年もの長い長い寝たきり生活を送って、星になりました。
自他共に認める『お祖母ちゃんの秘蔵っ子』だった私は、祖父には内緒で分骨して、そのお骨を祖母の戒名を書いたハンカチに包んで御守袋に入れ、遠出する時には必ず連れて行っています。


車の免許を取った後、父から「買い替えるけん、(今乗っている車は)譲っちゃる」と言われていた私。大学卒業するまでそのつもりでいました。まぁ、あまり信用ならない父との口約束でもあり、免許取りたての初心者でもあったから、もし自分で入手するなら中古車とも考えていました。

ところが。あーる日、突然。

母から、

「あんたの車ね、車種も色も決めといたけん。頭金10万も立て替えといたけん。払ってちょうだい」

……なんですと?? 私が買う車、とするなら、私に決定権があるんじゃないの? てか、何の相談もなく既に頭金まで払ってるってどういうこと!?

しかも、その車を選ぶのに、弟が相談に乗っているのっておかしいでしょ絶対。母は、父に車を買い替えさせないために、弟と共謀して私に車を買わせる算段した……としか思えなかったです。

しかも、私が緑色嫌いなの知っているくせに、選んだ色が薄緑メタル。その車種にはベージュメタルやゴールドといったお洒落な色もあったのにーーなんで、よりにもよって緑なん!!??

既に契約して頭金まで払っていて、しかも「立て替えといた」ですって。激怒したのは言うまでもありません。

結婚するまで、約7年その車に乗りましたが、まぁっったく愛着の心はなく、乱暴に乗り回しては追突や自損事故を繰り返しました……

車も嗜好・趣味の1つです。自分の好みが一番ですよ。次は外車乗るぞー!(笑)

物心ついた時には既に手元にあり、今も続いている趣味というか、ライフワークというかーーそれがビーズ細工です。
母は編み物・裁縫はやるけれど、ビーズのような細々したものは苦手な人で「教えた記憶ない。気づいた時にはもう持っていた」と言っているので、おそらく父方祖母が私に教えてくれたのだと思いますーー1歳7ヶ月から2歳の頃??

父方祖母は、とても手先が器用な人でありとあらゆる手芸通でもありました。編み物・フラワーディップ・リリアン刺繍・ビータッチ・ビーズ細工……裁縫をやっている姿を見たことはありませんが、手元に納まる細工物にかけては、そのスピードも仕上がりも素晴らしいものでした。
また、本人から何か教わることはありませんでしたが、母方祖母も色彩感覚豊かな裁縫名人で、買ってきた服が味気ないからと自分でカラフルな刺繍を施したり、座布団・クッションカバー・手提げバッグ・エプロンなど作るのはお手のものでした。

母は「あんたは隔世遺伝だろうねぇ」なんて言っていましたが、そんな母も裁縫嫌いと言いながらミシンを使いこなし、私が子どもの頃は服をたくさん作ってくれました。

「子ども服高かったけん、作らざるを得んかった」

いやいやいや、母さん、ありがとね。

だいぶ話逸れたな……

そんな血筋の私はーー編み物も裁縫もダメダメですが、色彩感覚と手先の器用さは受け継いだようです。中でもビーズは、作成意欲にムラがあるため数年放置な時期もありましたが、ずっと手元に残してきたものでした。

最初はもちろん、ただ糸に通すだけのシンプルなもの、次第に物足らなくなってきて、立体物に取り組むようになり、大人になってからはインストラクターの資格も取って……現在は原点回帰で、糸に通すだけでどこまでアレンジできるかにハマっています。

ビーズの他、裁縫も編み物も全くやらないことはないのですが……母や祖母には足元にも及びません。
いいや、1つでも特技があればと思う、この頃です。←諦めた(苦笑)




私には2つ年下の弟がいます。子どもの頃は虫キチで、2、3歳の頃にはポケットにダンゴムシなど入れてくるような子で、小学生になると祖父に昆虫図鑑を買ってもらったり、昆虫採集セットを買ってもらったり、末は昆虫博士かというくらいの虫好きでした。

その影響か、ただ張り合っていただけのかーー私もよく虫取りに行きました。特に夏は、セミ捕りに出かけたものでした。
最初に現れるのが、ニイニイ、ミンミンとアブラ、暑さ真っ盛りになるとクマ、お盆を過ぎるとツクツクボウシ。
当時は団地の間にたくさん木が植えてあったり、公園に林があったりして、セミだけでなくコガネムシ、カナブン、カミキリムシ、クワガタ、稀にカブトムシ……草むらでは蝶、バッタ、カマキリ、トンボなど、大物はだいたい弟が、小物は私でも捕まえることができました(笑)。

私は素手でも捕まえられる蝶とカマキリが大好きで、特にカマキリは何かと話題を作ってくれる虫でした。

これは弟がやらかした事件なのですが、冬にカマキリの卵を取って来て家の中に持ち込み、春と勘違いした卵から大量のカマキリの子が出てきたことがありました。母にしこたま叱られ、生まれてきたカマキリの子達は可哀想に掃除機で吸われました。
ある意味、昆虫の生態というものを体感した事件でした……

私がやらかしたのは、高校時代。通学でバス停に向かう途中、道路の真ん中にカマキリがいるのを見つけました。そこそこ交通量もある道で轢かれると可哀想だと思い、道の端に避けてやろうと手を伸ばしたら、バッと羽を広げて私の肩を超えて行きました。
振り返っても姿が見えなかったので、だいぶ飛んだなと安心。そのままバスに乗りましたーーいつも、通勤ラッシュを避けて早いバスに乗っていたため、教室の鍵はいつも私が取りに行っていたのですが、教室で宿題チェックしていると、私の後から教室に入って来た女の子達が一斉に悲鳴を上げたのです。

「キャーーーーッ!」
「さーやん! 首に鎌っ鎌っ!」
「ヒッ、左、左!」

首に、鎌? 指差された側の肩に手をやると、何かが私の指を引っかきました。そのまましっかり引っかかったモノを見てみると何と、バスに乗る前に助けようとしたカマキリでした。

「あんた、私と一緒にバス乗ってきたとね?」

バスには私の他にも乗車客がいたのに、誰も教えてくれなかったぞ? ペットと思われたのかしらん……中庭の植え込みに逃がして、めでたしめでたし。その後、一部始終を見た子達に『首に鎌事件』と命名され、怪談のように語られましたーーその時になって、女の子の大半はやっぱり虫は苦手なんだと痛感しましたーー

社会人になって、夏場ーー手の届かない壁にセミが止まって鳴くのが堪らず、捕虫網を買いました。子どもの頃ほど酷使しないので今もその網は現役です。
現在住んでいる所、最初の頃はハトがベランダにのさばっていたので、これも捕虫網で撃退。2年ほど前からカラスが進出してきて、ハトのフン害はなくなりました。

話、逸れたな。

昨年はこの網で、アブラ1匹クマ3匹をキャッチアンド(遠くで)リリース。マンションでセミが鳴くと声がやたら反響するから、クーラー入れていても気分的に暑くなるのよ……でも、いざセミ捕りしだすと、虫かごがいっぱいになるほど虫取っていたあの頃の血が騒ぎ出すのです。





あまり大きな声で言えることではないのですが……私の父は、自分の弱さから逃げるために酒に溺れていました。それだけでなく、空腹に耐えられない質で、お腹が空いている時は「俺の飯は(まだか)?」と不快な空気を撒き散らすは、少しでも癇に触ると「誰が稼いできよぉと思っとぉとや」「ガタガタぬかすと打ちくらすぞ」と至近距離からでも物を投げつけてくるは……小心者なのに見栄っ張りで、気の短い人でした。

そのくせ、外面ばかり良くてーー入院中は、見ず知らずの父の仕事関係の方々がたくさんお見舞いに来てくださったり、食事に招待してくださったりーー周りの人には恵まれている(?)人でもありました。

そんな父は、自分がお酒を飲むのに口実を作りたかったのか、一人で飲んで家族から浮くのを避けたかったのか……良くわかりませんが、私や弟妹も子どものうちから晩酌に付き合わされていました。
元々酒に強い家系というか酒を好む血筋であったようで、ただお酒を飲まされる分については、全く嫌ではありませんでした。

中学生になると、外食する時は何故か私にも1本ビールが付きました。高校生になると、飲み屋をやっていた友達の店に制服のまま繰り出し、補導されかけた事もありました。

「こらっ! 高校生がどうしてこんな時間こんな所に」
「私達、コスプレでーす ♪ 」

呆れた顔して通り過ぎていく後ろ姿を、手を叩き笑って見送ったり、一人で飲み歩いていた時は、

「おい、こんな所で何やってる」
「……お父さん、探しに来たんです」
「……そうか、大変そうだな」

わざとうつむいて、泣きそうな顔をして見せると何とかなりました。我ながら、悪賢すぎーーいろんな言い訳を口にしながら、どんどんお酒にはまっていった10代後半。

私自身、自分の弱さを一時でも忘れたくて飲んでいた……と思います。それ以上に、お酒大好きになってしまっていました。全く、救いようのない血筋(の、せいにしておこう、うん)。

大学生になって、父方の里に居候するようになると、祖父がお中元やお歳暮で貰っていた洋酒にも手を付けました。ワンゲルもゼミも、いわゆる『飲んべぇ』が多かったので重宝しましたーー祖父は日本酒派だったため、洋酒は劣悪な環境(温泉地であり西日がガンガン当たって冬でも生ぬるいような所)の倉庫に入れっぱなしになっていたのですーー誰も飲まないお酒を倉庫に山積みにしてあったものですから、掃除を兼ねて(口実)。

卒業する頃には、倉庫から溢れんばかりに積んであった洋酒はすっからかんになりました。何十年と寝かされていた『超・賞味期限切れ』洋酒から持ち出していたのですが、最後の頃はようやく賞味期限内のものに。

どんだけ寝かしとったん……てか、そんな古ぅいお酒、よく飲めたわ。私を含めワンゲル、ゼミの皆さん……

全盛期だった20歳は、同期四人と飲んで空いた一升瓶が12本、なんてこともありました。もう並の飲酒量ではありません。さすがにこの時は一緒に飲んでいた面々も驚きました。

大学卒業後、一人暮らしを始めて3年は「ただいまビール」状態で毎晩500ml缶飲んでいましたが、会社勤めを辞めてお酒にお金をかけていられない生活になり、飲酒量は急降下。
お酒に頼らなくてもいいような精神状態になれたから、というのもあるかもしれません。

それにしても、父のとんでもない飲酒教育に、何も言えなかった母が気の毒でなりません。というか、全然止められた記憶がないんだけど、何でな? 母さん……


大学生活は何かとイベント多かったような気がします。新入生歓迎コンパから、遠征前の壮行会、研究合宿、何かしら行事の打ち上げ、新年会に忘年会。
総称『飲み会』の後には、必ずと言っていいほど『二次会』があって1・2年生ほぼ強制参加ーーそれがカラオケでした。

研究室でもワンゲルでも、女子が少なかった(特にワンゲルは1年間紅一点でした)から、二次会でカラオケ代払った記憶がありません……二次会は先輩方が多めに払ってくれて、残りを男子が割り勘していました。

あれ? 四年になってもカラオケ代は払った記憶がないわ……今更だけど同期男子の皆さん、ありがとう。

父方祖父がカラオケマニアで、自宅にもカラオケセットがあったため、世間に普及し始めた高校時分もカラオケが珍しいとは思いませんでしたがーー(多分、父親にコタツから叩き落とされて以後)、人様の前で歌うのは、幼稚園お遊戯会か小学校学芸会か中高音楽会くらい、しかも歌いまくっていたのが記憶に無いほど小さい頃(おそらく2・3歳)なので、その頃の流行歌しか歌えません。(笑)

歌詞を見なくても歌える、津軽海峡冬景色、氷雨、ブランデーグラス、異邦人、ピンクレディー。歌詞を見れば頭に曲が流れてくるのがザ・ピーナッツとキャンディーズの何曲か、演歌はデュエットも数曲……

「お前、歳いくつや!」

と、よく先輩に突っ込まれていました。(笑)

大学1年の秋ーー初恋の人が亡くなった後。どんな経緯だったのか忘れましたが、河島英五のライブチケットをもらい、行ってみたことがありました。
その時、『酒と泪と男と女』を聴いて……号泣。

それから、カラオケで歌うレパートリーが1曲増えました。

酔っ払った挙句、泣きながら歌う『酒と泪と男と女』……「シャレにならんからやめてくれ」と先輩に言われてからは、たまに独りでカラオケ行って歌ったりしましたーー今、思うと、あれが青春時代だったのかなぁ、なんて、ね。

私が15歳で人生計画を立てるのに、影で支えてくれる人がいました。子ども劇場がきっかけで知り合った、当時大学生の劇団員ーー初めは純粋に『お兄ちゃん』的存在でした。
6歳上だった彼は、私の勉強を見てくれたり、自分の夢を語ってくれていました。

副作用が辛すぎて、「もう死にたい」と泣いて愚痴をぶちまけた時も、授業についていけなくて「解らない所が分からない」負のスパイラルに陥りかけた時も、身内以上に親身になって、受け止め諭してくれました。

私にとって、本当に『良きお兄ちゃん』だったのですがーー高校生活が確定した春休みのある日。彼の方から、

「さやちゃんのこと、好きになったっちゃけど……付き合ってくれんかな。歳上すぎかな」

と告白されてビックリ! 一体、自分のどこが好きになったやら訳分からん、とは思ったけれど、彼のことは『好き』だったので素直にうなずきました。

その時、彼が言った『好き』と私が思っている『好き』は、何か違うな……とは思いましたが、彼と別れる時まで、その違いが何なのか、当時の私には分かりませんでした。

告白されて天にも昇る思いでしたが、現実問題として彼は大学生、世間に知れ渡れば犯罪者扱いされかねません。私は自分が大学生になるまで、ごく親しい間柄以外に打ち明ける事はありませんでした。

特に、親には絶対、知られる訳にはいかないと思った私。彼にお願いして、電話連絡は無し、やりとりは手紙で、彼の家の郵便受けを使わせてもらう事にしました。これでとりあえず、身内に知れることはありません。

大学生で劇団員だった彼。とても忙しい日々を送っていたと思います。自分の事で精一杯だった私は、彼の好意に対して、ただ甘えるばかりでした。

手紙でも、私はどちらかというとネガティブなことばかり書いていたのに、彼からの手紙はたまに厳しい文面もありましたが、優しさが感じられるものでした。

「生きていれば、必ずいいことがある。さやちゃんは将来どんなことをして暮らしたい?」

人はいつか死ぬんだから、それまでにやりたい事全部やっちゃおうよ。全部やるためには、さやちゃんの場合は体作りが必要だよ。とりあえず、20歳くらいまでの計画立ててごらんーー確か、こんな感じの手紙をもらいました。

そこで……高校でできるだけ勉強頑張って、大学入って、あんまりきつくない運動部か何かに入って、最低でも一般人ギリギリ体力くらいは身に付ける……という計画を立てました。
私のすぐ挫けてしまう質を見抜いていた彼は更に、私に『誓約書』を書かせて、

「ここに書いた計画は、家族にも友達にも話して聞かせること。そうする事で、自分に何度も言い聞かせる事にもなるし、良い事を言い続けていると必ず実現するから」

と釘を刺しましたーー彼の言う事は素直に聞けていた私は、この計画だけは、あちこちで言って回りました。

すると、あら不思議! 言った通りに周りが動いていきました!

大学受験もトントン拍子に進んで、祖父母宅で暮らすようになってからは、手紙と、テレホンカードをもらって電話したり……とはいえ、手紙も電話も一方通行だし、ワンゲルの活動がきつく体力・精神的余裕もなくなり、手紙も電話も滞りがちになって、夏休み。



大学院を休学して大阪へ行くという彼を見送ったのが最後になりました。

ーー9月になって、彼が所属していた劇団から小さな小包が届きました。中には団員さんからの手紙と彼が私宛に書いていたらしい便箋とジュエリーボックス。

『彼は照明器具が頭に当たって亡くなりました。これ、さやちゃん宛に持ち歩いていたみたいだったんで、彼の手帳と荷物、勝手に見て送らせてもらいました。ごめん。』

私も知っている、彼と一番仲の良かった劇団員さんから送られてきたものでした。そうでなくてもワンゲルでへたれていた時に、この知らせはショック過ぎてその後の記憶がちょっと飛んでいます。
小包送られてきたのは覚えているのですが、その中身は全く残っていません。多分、その時処分してしまったのではないかと思います……
もっとちゃんと話をすれば良かったと後悔しながら読んだ手紙に、

「最低でも、一般人ギリギリ体力を身につけるんだよな。ワンゲルがんばれよ」

と書いてあるのを見て、クシャクシャに丸めたのは覚えています。

その後、自分の泣き顔を鏡で見ながらカラーペンでスケッチして気持ちを落ち着かせたような気がします。泣き顔のスケッチは残っているのねー……

その後、彼の遺言(?)どおり、ワンゲルがんばって続けていくことになりますがーーほぼ、サークルのお荷物化していた私。続きは『体力勝負編』で語っていきますね。


当時描いた自画像です。あまり似てない……多分。
私の祖父母は、私が大人になるまで父方も母方も健在でした。小学生の頃は、割と普通だと思っていましたが、中学生になると、

「うちとこはお祖父ちゃんお祖母ちゃんおらん。顔も知らん」

という子が多く、両家祖父母が生きている事自体、珍しがられました……

私の記憶は曖昧ですが、盆正月はほぼ父方里、その前後に母方里へ行っていたと思います。


母方里は、今も田園風景が残る里山的田舎で、祖父の弟夫婦もすぐ近くに住んでいて、子どもがいなかった大叔父夫婦にもとても可愛がられました。その実、私は祖父より大叔父の方が好きでしたーーごめんねお祖父ちゃん。

祖父は校長まで出世した教師人生まっしぐらな御仁で、良く言えば真面目で物を教えるのが上手。悪く言うと物を教えるところからだんだん自慢話や見栄張り話に発展して、収拾つけるのが大変。
一方祖母は、どちらかというと寡黙で、知らぬ間にあれこれしてくれている人で、「この野菜美味しかった」と言うとそれをずっと覚えていて、遊びに行くと必ず用意してくれている、そんな素敵な人柄でした。

父方里は、今は観光メインが山手に移ってしまって過疎化が進む元保養地。私が大学生時代に居候していた時は、まだ商店街も残っていて、しかも、商店街中の人が私の小さい頃を知っていて(弟が生まれる時に預けられていたのと、2〜3歳頃、父方里家の離れで暮らしていたため……と思われ)、大学に入ってご近所に買い物に行くと、

「まぁー、さやちゃん!? こぉんなにちっちゃかったさやちゃんが、大きくなったわねぇ」

ーー小さい頃は知れた顔だったようです、記憶にありませんが。

それはさておき。

祖父は、現在は引退していますが、当時は現役医師で、学生時代の採血検査は祖父の病院でやってもらっていました。一応、健常者数値ではありましたが、下限スレスレでしたね。祖父は戦時中は軍医で「大和に乗るところだったんだ」と、冗談とも見栄とも取れるような事を繰り返し聞かされーー小学生の頃、その話の流れで1メートルサイズの戦艦大和のプラモデルを買ってもらったこともありました。母方祖父と同じく自慢話が始まるとお茶を濁すのが大変……
祖母は、自身が二人息子を産んでことごとく裏切られた感があったようで、まだ私がお腹の中にいる時、母に、

「私、男の子はいらないからねっ」

とまで言わしめていたほど。つくづく、私、女に生まれて良かった。

念願叶っての女の子でしたから、それはそれはもう、猫っ可愛がりされました。私は自他共に認める「お祖母ちゃんの秘蔵っ子」でした。



大人になるまで、両祖父母が健在であったことは、とてもありがたいことだと思います……現在、母方は祖父母とも星になり、父方は祖母が星になりましたが、孫の中では私が一番、愛情を注がれたと思っています。

祖父とは揉めること多々ありましたけど、ね。(その実、父方祖父との諍いは現在進行形ですが(苦笑))

絵を描くことはとても楽しく、入院した時は、自分自身や周りの人への慰めや励ましにもなる素敵ツールの一つでした。

けれども、子どもの頃は、図画工作の時間は苦行でしかありませんでした。折り紙は好きだったけれど、絵を描くのは嫌で嫌で。
そのくせ、絵画センスを持つ子がいると男女問わず、羨ましくも憧れ、おかしな話かもですが、好きになったりしていました。

1〜2年生の時同じクラスだったM君、3〜4年生の時はMさん、5〜6年生の時はOさん、N君。絵を描くのがうまくて好きでした。

何故、男女問わず惹かれたのか当時の深層心理は解りません。

絵が上手いM君の事が好きだった全盛期の2年生2学期、あれは平和学習の時だったから、もしかしたら、夏休みの出校日だったかもーーのある日。
少し年配の男の先生が副担任として来られました。確か、大きい城で大城先生だったと思います……お名前出してすみません。どうしてもお礼の気持ちを伝えたくて……私は、大城先生のおかげで絵を描く事が大好きになりました。

話を戻しますね。

小学時代は6年間、担任に不信感募らせ続けていた私。大城先生が副担任で教室に来られた時も、話などこれっぽっちも聞いていませんでした。ところが、不意に、

「莢猫さん」

と名前を呼ばれて慌てて先生を見たら、先生は空中でパッと何かを掴む仕草をした後、

「僕は今、あなたの視線を掴みました。あなたはもう、僕から目を反らせませんよ」

と仰いました。すると不思議なことに、本当に目が反らせなくなったのです。よそ見をしていた子等は次々に名前を呼ばれては視線を捕まえられてーーその印象が強すぎて、その後何を話されたのか忘れてしまいましたが、美術担当で図画工作を受け持つと言われた……と思います。

大城先生の最初の授業は校内スケッチでした。私が嫌々ながら画用紙に向き合っていると、

「僕、学校の近くの公民館でお絵描き教室やるんだよ。良かったら遊びにおいで」

と言われ、絵を描くのは嫌だけど先生は好きになっていたので(笑)、遊びに行ってみることにしました。

そして、放課後。公民館に行ってみるとーー床にはブルーシートが敷き詰められ、その真ん中に大きなバット、中には生のサバとアサリが入れてあって、それを囲むように数人の子どもが座っていました。

「やあ莢猫さん。よく来たね。ここに座って」

座るなり画用紙を渡されて、

「そこのサバ、描いてみようか」

やっぱり描かされるのね……半ば諦め気味に、適当に魚の形を描くと、

「おや、ヒレはどこ?」
「目の大きさってどのくらいかな」
「尻尾は本当にこんな形?」

先生に言われてサバを見直すと、自分が描いたのとはだいぶ違っていて、直していくうちにそれっぽい形になってきました。

「それじゃあ、色を塗ろうか」

その後も、見落としていた所を指摘してもらって色を塗り上げたら、本物のサバらしく描けました!

「絵を描く時はね、描きたいと思うものをよぉく見ること。よく見ながら、少しずつ描いていくといいよ」

先生の丁寧な指導のおかげで、少しだけ絵を描くのが好きになった私。先生のお絵描き教室には毎回参加して、うまく描くというよりは楽しく描く技を習得しました。
低学年では苦痛だった図画工作も、高学年になると待ち遠しい教科になり、中学高校では美術部に入部。

一時、美大系の進路も考えた私は、高校2、3年の夏休みに予備校のデッサン夏期講習にも行きました。
その頃は花のデッサンにはまっていて、レコードや電球を描くのは全然楽しくありませんでした。たまに一輪だけ花が配られる事があって、そんな時は花だけ目一杯描き込んで、

「花だけ満点」

なんて言われたり。講習期間中、数回来られる球美の先生と武蔵美の先生からは、

「うちの大学受験する時は、花持ってきなさい。試験課題の静物払い落として、『私はこれを描きます!』って花描きなさい。合格にしてあげるから」

と冗談交じりに言われて真に受けました。(笑)

習い事としてのお絵描きはここまででしたが、大学在学中も社会人時代も、花の写実画や抽象画、ルーズリーフの空きスペースにはフニャ絵を描き続けーー

入院中は、自分が取り替えたトイレットペーパーの芯にボールペンで絵を描いてました。これが病室の人達にウケて、次々描いていくうちに、ただのトイレットペーパーの芯がもらわれていく物になりーー
同室だった方々とは住所交換して、以来、毎月欠かさず絵手紙を送っています。

絵を描く楽しさを教えてくださった大城先生……人生観が変わるほどの大きな宝物をくださって、本当にありがとうございます。

プロフィール

HN:
莢猫
年齢:
50
Webサイト:
性別:
女性
誕生日:
1973/09/06
職業:
自由業
趣味:
ビーズ細工・ドライブ
自己紹介:
詳しくはカテゴリー『プロフィール』で。
A型乙女座長女なのに、近頃は、AB型とかB型とか星座はともかく末っ子とか一人っ子とか言われる、ゴーイングマイウェイ主婦。
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